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誰もが「死にたくて」死んでなんかいないのに

自宅最寄り駅で人身事故に遭遇したことがありました。 

わたしの利用するちょうど一本前の電車が事故を起こしたのです。
事故が起きた時刻は、わたしが駅に到着したのとほぼ同時刻。
事故車両は停車位置手前で止まったままの状態でした。
改札前にブルーシートを持った駅員が立ってはいたものの、上り線と下り線線路の中間あたりに人が横たわっているのが確認できました。

白いワイシャツにスーツパンツの男性だ、と思いました。
(あまりまじまじとは見られるものではなく、ちらりと見ただけですが……) 

人身事故に遭遇。
東京都内で生活をしていれば、その頻度はわりと多く、
「あぁ、この路線は使えないな。別ルートを探そう」
とか
「混んでると思ったら人身事故で遅れかぁ……」
程度の感想を持って終わってしまうような話です。

人身事故にも、ホームに立っていた人が車両に接触した程度のものから、今回のようなケースまで様々あるので、人身事故というワードに都度反応しないのも仕方ないと思います。

ただやはり、
こういう形の遭遇は、今まで考えてこなかったことを改めて考えるスイッチになりました。 

とりあえず、目的地までの代替え移動手段を確保して、先方に遅れる旨を伝えた後からは、さっき目にした男性の姿が頭から離れません。
ふと、一日にどれくらいの人身事故が起きているんだろう……と気になって仕方がなくなり、調べてみました。
(こういうところが、変り者と言われる所以)

こちらの「鉄道人身事故データベース」で最近のデータを見ると、ほとんど毎日一件以上の事故が起きていることが分かります。
多い日では、一日に五件というデータもあります。 


そして、別のデータによると、鉄道人身事故において60~70%が自殺を目的としたものであることが分かりました。

わたしが目撃した男性も恐らく自殺を目的に飛び込んだのだと思います。
(混雑するような時間帯でもなく、実際に混雑していたわけではないからです)
その男性は、なぜ死ななくてはならなかったんだろう………………。
そして、毎日のように誰かが自殺によってこの世を去っている現実に
なぜ………………を考えていました。


「死にたい」は、手段であって目的ではない。


人身事故遭遇をきっかけとして「自死」について考えてみたこと。
そして、かつて「死にたい」という想いを抱えた過去があり、今を生きている一人として、今のじぶんが出したひとつの答え。
本当に「死にたい」と思って死んでいる人はひとりもいないのではないか、と思います。

わたしは、「死にたい」と思っている時、「死」を望むというよりも「跡形もなく消えてしまいたい」という思いでした。
跡形もなく消えてしまいたいけれど、それは叶わない。
それに一番近い状態が「死」であって、だから「死にたい」と思っていたんだと思います。決して「死にたい」わけじゃない。

両親が生きている間に理不尽な辛いこともいろいろありました。
その時も辛さから「死にたい」と思ったこともあったと思います。
だけど、その時も本当はそんな辛さから、突き付けられる現実から、無力な自分から「逃げたい」と思っていただけなのじゃないか、と今思います。
この時だって、「逃げる」手段が「死」しかない、と思っていたから、「死にたい」と思っていただけで。
「死」は目的なんかじゃなかったはずなんです。

過去のわたしにとっても、そして線路に倒れていたあの男性にとっても。
すべての「死にたい」あなたにとっても。

すべての「死にたい」は、本当は別の叫びなんじゃないかって。

その叫びを受けとめる場所があれば、「死にたい」はきっと別の言葉に変わっていくはずだと、思っています。

変わったその言葉を、まずはじぶんで抱きしめてあげるとかどうでしょう。
「辛い」とか「苦しい」とか「いなくなりたい」とか「助けて」とか「ただしあわせになりたい」とか「どうしてじぶんだけ」とか「疲れた」とか
ぜんぶ、ぜんぶ抱きしめてあげたらどうでしょうか。

そのぜんぶが大切なあなただから。





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