【短編】遅れる男(3000字)
何故だか僕は、何かと出遅れてしまう男である。
時間にルーズというわけでもない。
僕自身は大変真面目な男だと自負しているし、責任感だってそれなりにある。
上司からもそれなりの評価は受けている…はずだ。
ただ……ここぞ、という時に限ってなんだ。
本当に些細なことではあるが、それに起因して大事な約束に遅れたりする。
例えば。
朝のゴミ出し。
忙しい朝、溜まりに溜まったゴミを今日片付けよう、という日に限って車のキーが見付からない。提出書類を部屋に忘れて慌てて戻る。
そんな些細な時間のロスで、ゴミ出しを諦める羽目になるのだ。
ゴミはいつだって片付けられるんだ。
だけど。
必ずと言っていいほどの確率で、僕が今日!と決めた日に限って出遅れてしまう。
何でもないことなのに。
それだけではない。
エレベーター。
こいつも、大概急いでいる時に限って後一歩の所で乗り遅れる。
そして、その時間のロスはまたその後の大事な約束に遅れる理由となるのだ。
僕はいつも息を切らせて酸素を求め、
喘ぐ口を間抜けに半開きにした顔で、
右手を前方に情けなく突き出し、
届かないこの距離を忌ま忌ましく思いながら、エレベーターを見送る。
タイミングが悪いというのだろうか。
ここまで来ると天性のものか。
悪魔の仕業ではないかと思うほどだ。
その悪魔は、どうやら僕の天使をも奪うつもりらしい。
僕は、遅れる男―――。
そして。
彼女とのデート―――。
……はぁっ……はぁっ
…はぁ……
息を切らせて走る僕の前に彼女の後ろ姿。
僕の腕時計も、彼女が下に立つ時計台もPM7:20を指している。
――今日も。
20分の遅刻だ。
ルーズなわけではない僕。
到って真面目な男。
そう、天性のタイミングの悪さが、
僕を陥れる悪魔が遅刻させるのは彼女とのデートでは毎回のことだった。
悪魔は、いかにそれが僕にとって大事なことであるのかを承知なのだろう。
「……ごめん……また……遅れた……」
はぁ……はぁ……
息を弾ませながら、声をかける。
彼女はゆっくりと振り向く。
艶のある黒いロングヘアーがさらりとなびき、彼女の綺麗な瞳が僕を見つめた。
が、その顔に笑顔はない。
ローズピンクのグロスに飾られた唇は、キュッと横に引き結ばれている。
眉根を寄せて、不快の色を示していた。
長い睫毛を瞬かせ、溜息をひとつこぼすと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……悪いけど……あなたのこと、これ以上待っていられない」
はっきりとした口調だった。
その視線も強く、僕に注いだまま。
それは、彼女の静かな怒り。
僕はまた、間抜けに半開きになった口を閉じることもできず、ただ息を切らせていた。
そして。
「さよなら」
すぐに彼女は顔を俯せ、僕の横を過ぎ去って行く。
一瞬の出来事。
僕を待っていたのは、デートを楽しみにしている彼女ではなく、別れの言葉だった―――。
僕は、今まで
彼女をどれだけ待たせてきたか、考えてみた。
デートには、ことごとく遅刻。
酷いときには、1時間や2時間の待ちぼうけを食らわすこともあったっけな………。
あれだって、偶然の不運。
いつもなら起きもしないような事態に陥って、どうしても遅れてしまうんだ。
たまたま、携帯の充電切れの時に、彼女からの誘いのメールが入り、残業になった僕は気が付くはずもなくほったらかし。
こんな事もあったな。
資料室でひとり、調べ物をしていたら警備員に鍵をかけられて出られなくなって………。
「……本当に、悪魔の仕業かな」
余りの悪運に、自嘲的な笑いを浮かべ呟く。
どうして。
大事な約束ばかり、守れないんだろう。
それは些細なことが原因なのに。
「……だけど、5年か……」
それまで。
彼女は、よくもまぁこんな僕に愛想をつかさないでいてくれたもんだ。
それだけに、失った物は大きい。
プロポーズ、するつもりだったんだ。
ずっと、
待たせていた彼女に。
「……5年も待っててくれた」
結局。
僕が、彼女を待たせていたのは5年という年月。
それは、一瞬にして消えるものなんだな………。
夜空に燻る煙草の煙を見上げて深い溜息をついた。
――それから半月。
やっぱり、
5年かけて築き上げられた彼女への想いはそう簡単には消えてなくならない………。
僕は、そのことを痛いほど感じていた。
あれから、もう一度ちゃんと話し合いたいと、電話をかけてみたりした。
だけど。
彼女は頑なに、僕を拒み続ける。
まったく。一度、こうと決めると真っ直ぐなんだ。
彼女という人は。
だけど。
「……そんなとこも好きだったんだ」
自分のしてきたことの大きさと、失った彼女への想いの深さ。
今になって、思い知らされる。
今更。
「もう………遅いのか……」
そして。
僕と彼女の距離は離れたまま。
僕は、彼女への想いを忘れ去るどころか、募らせる一方で今日を迎えた。
今日は、彼女の誕生日。
プレゼントは前から決めていた。
彼女が、いつかショーウインドーに釘付けになって眺めていた小さなダイヤの付いた、ネックレス。
天使の羽の形をしてキラキラと輝くそれは、きっと彼女にぴったりだ。
君が、それに瞳を輝かせていたあの時。
僕は、素知らぬふりでいたけれど、後でこっそり手に入れていたんだ。
あの瞳の輝きを、僕だけのものにしたくて。
そう、永遠に。
そのプレゼントとは別の、もうひとつの小さな箱を握りしめる。
君のバースデーに、プロポーズするつもりだったんだ………。
定時で仕事を終えた僕は二つの箱を見つめ、思う。
今も彼女としあわせでいたなら、きっとこの後、約束を入れていただろう。
「今日は定時で帰れるなんてな……」
思わず独り言と溜息を洩らした。
彼女とデートの予定のある日は、決まって何かしらハプニングが起きていたもんだ。
僕から天使を奪った悪魔は、もう満足したんだろうか。
会社を出ると、そこは賑わうオフィス街の大通りだ。
ふと、通りの向こうに目をやる。
一瞬。
幻かと自分の目を疑った。
彼女だ………!
通りの向こうで、僕に微笑みかける彼女の姿があった。
少し気まずそうな笑顔。
でもそれは、紛れもなく彼女だった。
「……待ってて……くれた……?」
どうやら、僕は。
また、彼女を待たせていたらしい。
行き交う人の流れの中で、彼女は真っ直ぐに僕を見つめ、ゆっくりと頷いた。
微笑みを讃えた彼女は、まさに天使だ。
僕は、その光をもう二度と失わぬよう。
もう、ほんの少しでも彼女を待たせぬよう。
彼女を真っ直ぐに見つめ走り出した。
彼女に、なんと言おう。
「待たせてごめん」
「もう、二度と待たせないよ」
「だから」
「ずっとそばに……」
―――その時。
僕の目の前は、鋭い閃光に真っ白に塗り潰された。
ドン!!!
グワシャッ!!!!
とてつもない衝撃と鈍い痛み…………。
僕の身体は舞い上がり、硬いアスファルトに叩き付けられる。
僕は、
彼女しか見えなくなっていたんだ。
駆け出す僕。
点滅する青信号。
車のブレーキ音。
すべて掻き消された世界で………
あぁ…………
君が、恐怖に引き攣った表情で僕の方へ駆けてくる…………。
叫んでいる言葉は
もう
聞こえないよ…………。
薄れてゆく意識の中で最期に思った。
また
遅れた………………。
「遅れる男」
-END-
この短編は、2007年に“久坂 葵”名義で「魔法のiらんど」に投稿したものです。もう、14年前ですね…。サイトにまだ残っていたので懐かしくなってこちらにも掲載しました。14年前の作品が、少しでも多くの方の目に留まればうれしく思います。
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