"宇宙の宇宙"

ということで今回は #自己紹介 や生い立ちの回にしたいなと思います。
タイトルは父が撮りためた僕の子どもの頃のビデオのラベルに書かれていたものです笑

今回も長文かつ駄文。
興味のない方はここまででそっと閉じてください!
※昔やってたmixiの感覚で書きそうになってしまうのでダメですね笑

もっと写真とか入れたかったんですが、その辺は病室からなので、気が向いたら後から編集して入れます!

誕生〜名前の由来〜

自己紹介するにあたってまずは僕の名前について触れないわけにはいかないですよね笑

名前は
森 宇宙(もり うちゅう)
※ホントにそのまま読みます。

よく「ひろし」「そら」等聞かれるのですが、そのままです!
※この辺りの読み方、何となく世代によって違いがある気がしてます。
芝草宇宙さん(甲子園)世代とか、ガンダム世代とか…

#名前の由来 は、
1.論理的に考えられる人になりなさい
2.自分だけの"宇宙"を創造しなさい
3.宇宙全体の"悲しみ"を理解できる人になりなさい
って意味が込められています。
※小学生の時の宿題で聞いてからなぜかずっと覚えてます。

愛媛県新居浜市というところで生まれました。
両親は静岡市の出身ですが、父の仕事の関係で静岡には帰省の時に遊びに来るくらいで、就職まで住んだことはありませんでした。

生まれた時に静岡に居た父方の祖母は、電話口で名前を聞いて驚きのあまり受話器を落とし、その後しばらく会話ができなかった、そんなかわいいばあちゃんです。

最近父がよく言ってるんですが「子どものことで親の自由になることは名前くらいだ」とのこと。
僕をどんな風にしたかったのかが気になるところです。

幼少期

全く記憶にないのですが、父の仕事の関係で1〜2歳の間はオーストラリアに住んでいました。
当時は日本語よりも英語をよく喋っていたそうなのですが今に活きているものは何もありません涙
中学生の時に英語の先生からは「ホントに帰国子女なの?」と言われるくらいの発音しかできません笑
(そりゃそうですよね…)

社宅の団地で朝から晩まで遊んで日焼けで真っ黒のいたって普通の男の子だったと思います。

サッカーとの出会い

幼稚園の年長の時にJリーグが開幕。
サッカーブームは愛媛の田舎にもやってきて、幼稚園の園庭で水道の壁と鉄棒をゴールに見立てて、みんなでボールを蹴った記憶が朧げに残ってます。
これが僕のサッカーとの出会いだったのかな…

その後サッカーにのめり込んで、気づけば大学4年までプレーを続け、今は仕事にまでしてしまってます。

エスパルスとの出会い

両親が静岡市出身だったため、Jリーグ開幕と共に「地元にできたプロサッカークラブだから。帰省した時の地元の盛り上がりが嬉しかったから。」と父はエスパルスのファンに。
そして、僕が買ってもらう自転車からサッカーシューズから帽子から何から何まで、これでもかってくらい全部エスパルスでした笑
それが僕のエスパルスとの出会いです。

ちなみに父はあまりに熱烈すぎてTVでエスパルスの試合が中継があるときはもちろん、他のチームの中継でも、当時画面下に出てくる速報スコアを頼りにずっと僕と妹にフラッグを90分間振らせ続けてました。
そして負けようものなら「お前たちの応援が足りないからだ!」とよく叱られてました。
今にして思うとよくこれでエスパルスのこと嫌いにならなかったなと思います笑

画像1

↑当時の写真(僕の表情が状況を物語ってますね笑)

その後僕の人生の側にはいつの間にかエスパルスがいました。

ちなみに父によく泣かされた妹も社会人になり遠方からですが、エスパルスを応援してくれてる様です。

小学生時代

小学2年生の時に小学校の少年団に入りました。
最初の練習は上下エスパルスのキッズユニフォームで参加したのを今でもハッキリ覚えています。
ここから大学4年までサッカー選手としての人生を歩むことになります。

クラスの代表委員や児童会にも参加する様な、ちょっと優等生ぶったやつでした笑

そして、小学生6年生の夏、父の仕事の関係で宮崎県日向市に引っ越し、転校を経験します。
言葉が違うのが当時小学生の僕には1番の衝撃でしたが、周りのみんなが優しくてすぐにクラスに入っていけました。

この時、静岡に居た母方の祖母は「こっちから遊びに行く時はパスポートがいるのかね?」って言ってたおもしろいばあちゃんです。

とにかくサッカーが上手になりたくて、社宅の空きスペースで暗くなるまでリフティングやってました。

エスパルス存続の危機の時は、新居浜で署名集めしてました。
ステージ優勝の瞬間は、日向の社宅のリビングで家族で喜んでました。

中学時代

恩師との出会いがありました。
サッカー部の顧問の先生でしたが、専門競技はソフトボール。
この先生に『スラムダンク勝利学』という本を薦められて、今や僕の人生のバイブルになっています。
先生に出会わなければ、大学までサッカーを続けようと、その先もサッカーと関わっていこうと思うことはなかったと思います。

坊主頭時代の始まり笑
たしか中学2年の時だったか、何か大会に向けて「気合いを入れる」と1人で坊主にしたのをきっかけにしばらく「楽だし」と坊主頭の時代が続きます。

とにかくサッカーが好きで、熱中症でぶっ倒れるくらいサッカーやってました。

エスパルスが天皇杯優勝の時は静岡に帰省中。親戚みんなでお祝いでした。
でも、この頃は少しだけ海外サッカーに浮気してました笑
Jr.ユースのセレクションを受けようかと思って、申込書に書ける選抜歴なんかないことに気付きそっとパソコンを閉じてました。

高校時代

高校はまた新居浜市に帰ってきました。

先輩が審判をやっている姿を見て、
サッカーに選手以外の関わり方があることに気づかされました。

サッカー部の顧問の先生に「審判の資格取ったやつは、上の学年の遠征に優先的に連れて行く。」と言われ、不純な動機でこの時審判の資格を取得しました笑

3年間坊主頭だったので、あまり話したことない同級生からは"野球部所属"だと思われていました。

とにかく試合に出たくて、部活の後も1人で残って自主練やってました。

長谷川監督初年度の天皇杯決勝は、受験勉強の合間にTVで応援。
試合後の勉強が捗らなかったのは懐かしい思い出です笑

大学時代

「大学で勉強するならサッカーのことを勉強したい」という想いで筑波大学に進学し、蹴球部に所属しました。
※進路選択の時、両親とは「もっと違う学問を学んだ方がいいんじゃないか」と結構揉めました。
が、結局僕の思うままに進ませてもらいました。

この4年間は最高の仲間に囲まれて人間として大きく成長できたと感じています。

サッカーのレベルの高い中に身を置いて、挫折の連続でした。
大学4年の時には脛骨を疲労骨折して、最後のシーズンの半分を棒に振ることになった時は呆然としました。

選手としてだけでなく、"自主管理・自主運営"の精神で全てにハイレベルだった組織で、色々な活動に携わることができ、今も活きる力を身につけることができました。

ただ、フレッシュマンという1年生だけでトレーニングする仮入部期間中、ずっと遅刻しない様に気をつけていたのに、最後の最後仕上げの筑波山登山の日、夜の集合に寝坊するという失態を犯した際はこの世の終わりだと感じました…

とにかくサッカーに関わる時間を作って、色んな活動に充ててました。

単位の1つで、エスパルスにインターンに行かせていただき、それがきっかけで今に繋がっています。
※この辺りの話は改めて書かせていただこうと思ってます。

大学卒業後

そして今は縁あってエスパルスで働かせていただいてます。
※この進路選択の時も父とは結構揉めました。
ただ、この時「僕をエスパルス好きにしたのは父さんなんだから」という気持ちで、押し通しました。

紆余曲折ありましたが、2022シーズンで13年目を終えて、エスパルスを退職しました。
運営担当を6年やった後、現在法人営業担当を7年務めさせていただきました。
エスパルス在職中に感じたこと等は↓

上述した様に、"サッカーやエスパルスに育ててもらった、常に一緒に育ってきた"という想いから、"サッカーやエスパルスに恩返しがしたい"と思って日々仕事をしてきましたが、これからは少し違った角度からエスパルスや地域の盛り上げができる様になれたらと思っています。

日々勉強しながら自分で考え、"常に全力で"をモットーにしています。

まとめ

あまり長くならない様にしながら、上手くまとめては書けず…
まだまだ文章表現力が足りないので、トレーニングですね。

少しでも"森 宇宙"という人間の人となりが伝わってたらいいな。

今回こうやって書いて、自分のことを振り返ると、僕は本当に周りの方々に恵まれてるなと感じました。
※ ちゃんと書ききれてないのが悔やまれます…

どの時代にも素敵な方、目標になる方、導いてくれる方が近くにいて、その方々のおかげで前に進めていることがよく分かりました。

世の中には自分の力で道を切り拓いていける様な人もいますが、僕はそんな力持ち合わせてません。
これからも周りの方々に感謝して、力を借りながら前に進んでいきたいと思いました。

今回も長文駄文、お読みいただきありがとうございました。

※2023年2月28日一部追記修正

自己紹介の続きは↓

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