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真実を知ることはない

 ながら作業が好きなので、ラジオはよく聴く。私は今日もFMをかけながら、今朝までの洗い物を片付ける。洗い物をしているという正しい時間はなかなか心地良いもので、その時私の頭にあるアーティスト名が浮かんできた。特に好きなアーティストではなく、勝手に脳内を巡回しに来たことは一度もないもので、曲としてではなく、文字列として浮かんでいた。すると次の瞬間、ラジオのパーソナリティがその文字列を読み上げ、ラジオでは曲がかかる。私の頭に先にイメージがあって、それが音になって現れた感じ。

 会話をしていると、こういうことは今までもたまにあって、それは相手の言おうとしていることが口を開く寸前に頭に浮かんでいるというもの。会話の脈絡を読んでいるということではない。話し始めの一言目から分かるときだってある。しかし、分かるからといって何もすごいことはない。それは「たまに」の話で、時間指定のない宅配便のようにいつ訪れるか分からないし、そもそも二三秒前に相手の話すことが頭にあったとして、本当に話し出す確信はまるでない。相手の口から出てきたものを検分して初めて浮かんでいたことに気付くくらい。だから、これが特殊な能力(もちろんそんな大袈裟なものとは思っていない)だとしても何に役立つこともない。

 といっても、ラジオまでとは思わなかった。今までは人との会話でしか起きたことはなく、人間のもっている共感能力を、脳がどうにか勘違いして、以心伝心のように感じることがたまにあるのだろうくらいに思っていた。もしくは、(技術としての)読心術の才能が自動的に働く瞬間があるのかくらいに。しかしラジオではこの仮説は通用しないではないか。

 洗い物を終えて手の水を切っていると、洗い残した皿を一枚シンクの中に発見した。発見するも何もシンクに死角などない。洗ったはずなのにおかしいな、と思ってもう一度洗う。人の記憶は曖昧で、世界が不思議というより、記憶がおかしいとする方が都合がいい。それに真実を知ることはない。だから今日のラジオのことも、「きっと私の気のせい」にするのが簡単で、簡単に処理したことはすぐに忘れる。

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