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『感傷よりも青い月』6

三階の自室で綾子は寝息を立てていた。わざわざ三階まで運んだのは乾の要望によるものだ。遺体から遠ざけ、自室で休ませたいからということだった。警察と病院には連絡を済ませてある。街から離れているとはいえ、二十分もすれば着くだろう。

傷は見当たらず、呼吸も正常であるのに綾子の意識は戻らないままだった。なぜ意識が戻らないのか、判らない限りは病院にも連絡を取るのが適当なことだと思える。

「まさか、こんなことになるなんてな」京介は青ざめている。こんな事態に遭遇するなんて思ってもみなかったのだろう。当然である。乾は綾子の側で椅子に坐っていた。

「堤さん、部屋の窓に鍵は掛かっていましたか」乾は疲れたように堤を見て、そう訊ねた。「――はい、窓には鍵が掛かっていました。もちろん、部屋の扉にも」返答に乾は溜め息を吐いた。その意味が判らない彼女ではないだろう。扉か窓からしか人は出入りできない。どちらも外鍵はなく、どちらにも内側から鍵が掛かっていたのだ。――そして。

「どうして、綾子さんは部屋にいたんでしょう」自分に問い掛ける言葉でもあった。

「どういうことだ?」京介の表情は依然として優れなかった。

「堤さん……それは」乾は厳しい視線を堤に向ける。声音には咎める調子があった。

堤は気にせずに続ける。「先生は就寝中を刺されていた。当然、刺した人物がいます。部屋に続く扉と窓にも鍵が掛けられていて、部屋には死人を除けば、綾子さんしか残されていなかった。なぜですか?」乾の顔は引き攣っている。細い腕が震えていた。震えを鎮めるように、乾は寝ている綾子の手を力強く握る。まるで彼女を守るようだった。

「堤さんは……綾子さんが先生を殺害したと?」乾は絞り出すように言った。

堤は首を振る。「綾子さんが殺害したのなら判りやすいんです。けれど、到底そうだとは思えない状況があります。殺人者である綾子さんが現場に留まっていることが一つ、部屋の中で意識を失っていることが一つです。部屋には内側から鍵が掛けられていた」

「水を差すようで悪いんだが、榊さんを殺した人間がいるってのは事実だろう。綾子さんが無実だとすれば、誰が榊さんを殺したんだ」京介は煙草の箱を指で叩いている。ニコチンへの欲求を思考に転換しているようにも見える。

「いいえ、誰が先生を殺したのかなんて論じる意味はありません。問題は綾子さんが犯人であるかどうかです」乾は断言した。眼には毅然とした光が宿っている。言い返そうとする京介を無視して言葉を続ける。「血痕は傷口を中心に流れ出していた。シーツも血で染まっていました。先生が自室で殺害されているのは間違いない。綾子さんが犯人でないとしたら、綾子さんは犯人を見ているんじゃありませんか?」

「それだって、実際に犯行を見ていた可能性とは結びつかない。事が済んだ後に部屋に来た可能性もある」京介は顔を顰めた。

「いつから部屋にいたのか。部屋に来た理由は省くとして、どのタイミングで部屋にいたと考えるのが妥当なんでしょうか」

「事件の前、事件の後、突飛な考え方をするなら、犯人と同時に来たというのも候補には含まれる。省いてもいい条件があるでしょうか?」乾は試すように問い掛ける。彼女の意識には警戒がある。事件を突き詰めていくことへの恐れが根底にあるのだろう。

「限定することはできません。すべてが曖昧なんです。形が見えてこないのは、なぜですか? それは綾子さんの意識が戻らないからです。結局は綾子さんがどう動いたかに因るところが大きい。僕は意識が戻らないということが一番に重要なんじゃないかと思います」

「最終的に綾子さんが目覚めるのを待つしかないということ? 不可解なのは現場に綾子さんが倒れていたこと。つまりは綾子さんが眼を覚ませば、事件は明快なものになる。綾子さんがいなければ、誰が犯人でもあり得た事件です」乾は意識的に思考を限定的にしているようだった。辿り着く先を窺うように、寝台の綾子を俯きがちに見ている。

「先生を殺害したのが誰であれ、状況から導き出されるもっとも短絡的な結論は、榊綾子が榊籐次郎を殺害したという状況です。もちろん、否定することは可能でしょうし、警察もそこまで莫迦じゃないと信じています。だとしても……綾子さん自身の証言があればの話しです」乾以上に堤は必死だった。時間に猶予はない。乾は唇の端を噛んでいる。現状を把握しているからこその仕草に思えた。

「もうすぐ、警察が来ます。容疑者には意識がなく、仮に意識を取り戻したとしても、喋ることができない綾子さんを警察に引き渡すのは危険に思えます」

「……喋ることができない?」京介には、綾子が喋れないということは言っていない。初耳の情報に京介は固まったように動かない。

「十年前にも事件がありました。事件のショックで綾子さんは声を失い、事件後に母方の伯父である先生が養子として引き取ることになったんです」乾は淡々と言う。

「そんな、まさか」静かに呟くと、京介は考え込むように指を組んだ。思いついたことがあった。一か八かだ。堤は乾に向き直り、考えを話す。

「もしかしたら、意識が戻らない原因も過去の事件にあるのかもしれない。死体を発見したことで過去のショックを想起した。可能性としては充分に考えられることです。時間もありません。犯人が誰かは判りません。最低でも、綾子さんが犯人ではないという拠り所のようなものを見つけておきたい。僕らに犯人が判らないように、警察にしても犯人を特定可能な証拠は限られていると思います。なにも判らない状態で、みすみす綾子さんを渡したくはないんです」自分を客観的に認識する。どう考えても入れ込みすぎている。冷静さを失ってはいけない。乖離した人格を引き込んで堤になる。どこまでが虚構の代物か。

「過去の事件を浚って、意識の喪失に理由を求めることが可能でしょうか?」

「それさえも知らなければ、疑いは更に深まります」もどかしく感じるのは、なにも知らないからではない。綾子を弁護したいはずの乾が、ここまで頑なだと思わなかったのだ。

「……私が知っている限りのことは話させていただきます。話したところで、今回の事件に繋がることがあるかは疑問ですが……」それでもいいのだ。堤は黙って頷いた。

「十年前ですから、綾子さんが八歳の時です。彼女の両親が殺されたのです」

「殺された」言葉を呑み込むように呟いた。綾子は家族を失っている。

「ええ、当時はテレビでもかなり取り上げられました。マスコミの取材も過激なものだったと、先生からは聞いています。綾子さんを養子という形で引き取ったのも、被害者の家族としての性を変えてあげたかったからだと仰っていました」

「旧姓はなんというのですか?」京介が口を開いた。深刻そうな表情は変わらない。

「……さあ、聞いたような気もしますが憶えていません。事件にも関係はないでしょう」

余計なことを喋らないように意識してか、冷ややかな口調だった。

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