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『感傷よりも青い月』8

「鍵を掛けたのは綾子さんとしか思えない。不可解な密室は綾子さんにとっての必然です。綾子さんは真っ暗な先生の部屋にいた。そこへ犯人が侵入したんじゃないでしょうか。夜中であっても、窓を閉め切っていては暑いでしょう。窓は開かれていた可能性が高い。仮に部屋の扉から犯人が入ったのであれば、犯人は部屋の中にいる綾子さんに気付いたでしょう。窓から入った場合はどうか。窓際から部屋を眺めた時に、ベッドの端が死角となります。蹲っていれば身を隠すことは可能です」堤も朝だというのに、ベッド端に倒れた綾子には、扉に向かうまで視認できなかった。小柄で、尚且つ侵入者を察知して意識的に身体を丸めていれば、猶更のこと気付かれ難いに違いない。

「先生を刺殺した犯人は窓から部屋を出ます。扉から出ては、他の住人に気付かれてしまうからです。犯人にとって、密室にする意味はどこにもなかった。しかし、綾子さんは違います。犯人が出て行った窓は開いたまま、もしかしたら犯人は戻ってくるかもしれない。先生の安否を確認する前に綾子さんはまず、窓に鍵を掛けたんじゃないでしょうか。一先ずは現状に立ち返り、通常とは違う屋敷の状況に思い至ります」

「堤さん達がいらっしゃった」乾は綾子の心中に、思いを馳せているようだった。苦々しい表情が浮かぶ。

「過去の事件もあって、綾子さんの来客に対する警戒心は強かった。先生を襲った人物も客の誰かだという可能性がある。先生の自室は一階であり、玄関からも近い。部屋を出れば、犯人とバッティングする恐れがあった。迂闊に出て行くことはできない。最悪のケースは犯人が部屋に戻ってくることです。綾子さんは部屋の扉にも鍵を掛けた……乾さんが泊まられていることを綾子さんは?」

乾は首を振った。悔しそうな顔を隠そうともしていない。とても痛々しく見えた。

「……先生がいなくなれば、屋敷には部外者しかいなくなる。声を出せない綾子さんには、電話で助けを呼ぶことも出来ません。もちろん、タイミングを見計らって脱出するつもりだったのかもしれませんし、朝に訪れるであろう乾さんを部屋の中で待つつもりだったのかもしれません。結果としては意識を失っていたわけですが……犯人が入れないように鍵を掛けたあと、綾子さんは先生の安否を確認した。遺体を見た結果として彼女は気を失う」

林は近いはずなのに、遠くの方で蝉が鳴いていた。近くでも忘れたように音がする。

「部屋に鍵が掛かっていた理由に関しては、納得が行きます。説明されれば、確かにありそうなことにも思えます。ただ、犯行中に部屋の中で隠れていたというのは無理やりな気がします。犯行前ではなく、犯行後に部屋へ来た可能性はないんですか?」

「かもしれませんが……犯行後に部屋へと来たのなら、綾子さんは無警戒で部屋に入ってきたはずです。争った形跡もありませんでしたから、入室前に音で警戒することも難しかったと思います。窓と扉に鍵を掛けるにしても、遺体を確認してからでしょう。ですが、遺体を見たショックで気を失ったのなら、冷静に鍵を掛ける心境でいれたかは微妙です。想像してみることしか方策がないので……なんとも言えませんが」

「気を失った理由も推測するしかないんですね……」

「想像だとしても、考えられる事態はそう多くはありません。事件に関係のある理由なのは間違いないと思います。犯人のいない部屋で独りでに気を失う。相応の理由があるはずです。持病でもあれば別ですが、ないなら事件と結びつけて考えるのが自然な気がします。仮説を立てることも可能です」乾の側へ寄り、綾子を見下ろすような恰好で話しを続ける。

「十年前の事件で犯人はナイフを凶器として使った。今回の事件で使われたのは包丁です」

「ええ」乾は意図が掴めないといった様子で頷く。

「昨日、別荘には調理器具が満足に揃っていないと言いましたね。料理も思えば、簡単なものばかりだった。キッチンに包丁もなく、買ってさえいない理由が判らない。便利が悪いに決まっています。屋敷に包丁がないのはなぜか? 綾子さんの眼に触れることがないようにという配慮からじゃないですか?」

「……それも事件の所為ですか」考え込むように俯くと、乾は言った。

養子になり、綾子が本邸の台所に立ち入ることがあったとしてもおかしくない。運悪く包丁を見て、事件に関する記憶を思い出したということがあるかもしれない。結果として、刃物を置かなくなったんじゃないだろうか。しかし、乾に思い当たる節はないようだ。

「本邸のほうでなにかありませんでしたか? 家を移り住んだ当初の頃でしょうから、乾さんはまだいなかったかもしれませんが、思い出して欲しい。譬えば、キッチンに鍵を掛けられるようになっていたりだとか、過去に綾子さんが刃物を見てパニックになったとか、そういうことはありませんでしたか?」自然と口調は厳しくなる。

「……申し訳ありませんが、私には判りません」乾は萎れたように首を振る。

「なんでもいいから思い出せませんか? 事件に関して僕の言ったことは想像でしかない。証明に足る証拠もありません。ですが、綾子さんが刃物恐怖症であれば、少なからず容疑者からは遠い存在となります。警察にも説明できます。時間がありま……」

言葉が詰まった。乾は俯いた顔を上げる。表情には堤を憐れむような色があり、弱々しい笑みを繕うのは嘲りではなく、優しさに思えた。乾は緩慢に首を振る。

「先生から聞いているものだと思っていたわ、ごめんなさい。私はね……」

堤は先の言葉を聞いていなかった。眼を瞠った先にあるのは乾ではなく、綾子の顔だった。端整な白い陶器のような肌に、赤茶色の髪は人形のようで――人形の眼が開かれている。深く沈むような黒の瞳はゆっくりと堤の顔を捉えた。惚けたように胡乱な瞳が堤を取り込む。

堤の視線を追い、乾も寝台の綾子に眼を落とした。乾もまた、言葉を失う。

朝の光を取り入れた部屋は、無限の時間に置き去りにされたようで、人形のような少女の時間も同様に停止したのだと思えた。音は遠く、フェードアウトする。虚ろな昏い瞳に眼を奪われて、少女の唇が動いていることに気付かなかった。声を出さず、口の動きをトレースする。

『…………オ……………カ……ミ……サ……』

「オオカミ……サン?」

すべての音が蘇る。同じように綾子の顔を見ていた乾がぼそっと呟いた。ここにいないはずの名前を聞いて、乾の眼は理解に呼応するように見開かれていく。総毛立つ悪寒があった。その名前を言った意味は一つだった。

遅れて、窓の外でエンジンの掛かる音がする。蝉の声は遠く、嫌に明瞭(はっきり)と音は届いた。駐車場に車は三台、亡くなった主人と眼前の家政婦のもの……あと一台は。

遠ざかる走行音は警察車両ではないことを意味している。確認しなくとも車種は判っていた。それはきっと、シルバーのセダンに違いない。

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