『感傷よりも青い月』9
都市部からは少し遠ざかり、異様なまでに静かな住宅街だった。見渡す限りも人影はなく、建ち並ぶ邸宅は眼を瞠るような広い敷地ばかりであった。
駐車場を探すのも面倒に思える。愛車を路上に停めて、乾十和子は車を降りた。
閑静な街並みに、十一月の冷え込みは一層と厳しく感じられる。十和子はクリーム色のセーターにジーンズを穿いていたが、薄手のセーターでは、寒さに対する備えは充分とは言えない。寒がりではあったが、厚着をするのは気持ち悪くて嫌だった。
愛車のベンツは霜を含んで、真紅の車体にも艶が失われているような気がする。
少しげんなりとした気分になりながらも、榊籐次郎の本邸である住所のインターホンを押す。暫くの後に応答があった。若い男の声が送話口から聞こえてくる。
「はい、楪(ゆずりは)ですが」事件から約二ヶ月半ぶりに聞く、堤進之介の声であった。
「お久しぶりです、堤さん。屋敷で家政婦だった乾です」
「ご存じの通り、狼京介は未だに捕まっていません。半月ほど前までは、警察が家の前を張り込んでいたんですが、今では車も見当たりませんし、警護を解いたのでしょう。この辺りで路上駐車なんてしていたら目立ちますからね。すぐに気が付きましたよ」
白を基調とした内装の居間が眼に痛い。窓の外には隣接したテラス、曇天の所為か却って室内は眩しい。ソファに坐り、堤は苦笑いを浮かべている。十和子は出されたコーヒーを軽く口に含んだ。冷えた身体に染み渡る。コーヒーは堤が淹れたものだった。
「こちらで働いていた、元々の家政婦さんは辞められたんですか?」
「先生が亡くなってしまいましたから、雇う余裕もありません。貯金を切り崩して生活するしかありませんからね」
「夏休みの間だけとはいえ、先生が亡くなられてからは、私もバイトを続けることができなかったので、綾子さんの身の周りを堤さんが手伝っていると聞いた時は安心しました。正直、驚きましたけど」その為に、大学まで辞めていることを十和子は事前に聞いていた。
「当然のことだと思っています。凶賊を招き入れたのは僕の責任でもあります……事件の際には問い詰めるようなことを言って申し訳ありませんでした。あなたには、こちらの家の事情を知る術はなかった」
堤が頭を下げた。十和子は恐縮して、肩を竦める。同じ学生であったとは思えないぐらいに大人びていて、どうにも不良な自分と比べてしまい気恥ずかしくなる。別荘での家政婦も、籐次郎と交友のあった大学教師からの伝手でありついたバイトである。給金も悪くなく、多少遠いが、実家からなら通うのも難しくはない。幼き頃から家政婦の仕事振りを見ていたのもあって、仕事に慣れるのも早かった。当然にして、榊家の詳しい家庭事情などを知っているわけもなかったが、堤が思い違いをするのも無理はないことに思えた。
「気になさらないでください……綾子さんはもう大丈夫ですか?」
「はい……元々が怪我などもありませんでしたから、今は三階で眠ってるんじゃないかな? 事件当初こそ警察の追求も厳しかったですが、ここの家政婦さんが昔から働いていた人だったので、綾子さんが過去にも刃物を見て錯乱した事実があると証言してくれました。綾子さん自身の目撃証言と、狼京介が現場から逃走したこともあり、綾子さんの無実を警察も信じてくれたようです」声音には安堵の色が強かった。
もう一度、あの美しい少女を見てみたかった。短期間とはいえ、彼女の世話をしたことは、十和子の心中に於いて、忘れようもない記憶となっている。永遠に続くような静寂に支配された空間、人形のような少女と接するのは恐いぐらいに緊張感があって、繊細な赤茶の髪を梳いている時には、不思議と罪悪感を覚えるほどだった。透き通るような純白に触れているのは不躾な心持ちがして、ともすれば壊れてしまいそうな気がしたからだ。
「事件自体が大々的に報道されたこともあって、事後の詳細などについても一通りは知っています。一応は私も当事者でしたから。だけど、詳細を知ってから事件を思い返した時に、私の役割は全然違うところにあったんだなと気付かされました。狼京介が十年前に綾子さんの両親を殺害した犯人であることを報道で知ってからのことです。綾子さんは先生の部屋で狼京介の顔を見たんですね?」
「綾子さんが殺害現場で見たのは今も昔も同じ顔だった。僕が悪いんです。狼京介をみすみす屋敷に侵入させることになってしまった。先生が殺される原因を引き入れた」
端整な顔を懊悩に歪めている。公にされた事件の真相は結果として、堤が推理した通りであった。綾子さんは犯人を恐れて部屋の鍵を閉め、死体を見て気を失ったのだ。
「あまり自分を追い詰めないでください。さっき役割と言いましたよね? 私が今日ここに来たのはその為です。私たちは、事件に対して重大な誤認をしていたかもしれません」
「……誤認とは、どういうことです?」堤は驚いたようにこちらを向く。十和子は頷いた。
「程度はあれど、事件に対する認識には差があるように思われます。私はここで答え合わせをしたいんです。ですから、口を挟まずに聞いてほしい。それが絶対の条件です」
「はい」堤は確かに頷いた。なんとなく、彼なら嫌とは言わないだろうという予感があった。どこまでも誠実であることが嬉しく、十和子は自分が正しいと信じることができた。
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