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『最高の図書館』4

「真夜君」
邪な目的も忘れて読書に没頭している最中に、話し掛ける声があった。物腰柔らかな声は、性急に過ぎる現代に於いて、逆に不適切の烙印を押されかねない。落ち着き払ったというよりは暢気な様子で姫野さんが立っていた。
「お疲れ様です」軽く会釈する。姫野さんに疲労の色は見えない。
真っ白な髪は短く切り揃えられていて、頬から顎に掛けての鋭角的な線は不健康な印象を強くする。顔の丸みが消えて痩せぎすに見えるからなのだが、身体は存外にがっしりとしている。いつも若々しい青の開襟シャツを着ているけれど、活発さよりも落ち着きのほうが勝っていた。
正式な役割としてはないのだろうが、姫野さんはここの司書長みたいなものだった。真っ白な髪が目を引くけれど、実際の年齢は五十手前ぐらいだろう。それでも一番古株なのは単純に分館の司書が少ないからだ。
「いや、待たせたね」
「全然……待ち惚けに読んでみたら面白かったんです」姫野さんに表題が見えるよう、本を掲げる。
「ああ……そうだ。都市計画のところは面白かったな。日本によくある人と車が密接するような道路は本当に嫌になる。常に周りを気にして歩く不自由を認識すると、海外に移住したくなったな」
「狭い道は嫌いですか?」
「どうだろうね……人だけが通れる隘路(あいろ)ならいいかもしれない」
「誰も通れない道路が通るに値するんですね」
「しかし、そんな道は果たして必要なのか? うん……アイロニーが利いている」
うんうんと頷きながら、姫野さんは満足気に笑っていた。感想を述べるのは無条件に楽しいらしい。なんとも微笑ましい光景である。三郷分館の蔵書に関して、姫野さんは内容共々に精通している。驚嘆に値するが、果たして三郷分館に限定した知識なのかは判らない。予想を軽々と超えそうなのが空恐ろしく、きっと誰も訊ねたことはない。
「上の人は姫野さんの知り合い?」なにも聞いてない素振りで姫野さんに質問をする。
「まあ、古い知り合いではある」姫野さんは困ったように微笑(わら)った。
「曖昧なんだ」
「関係なんて言葉に当て嵌めると途端にね」
姫野さんは博愛主義的に淡々と優しく、それでいて素っ気ないように丁寧だと感じることがある。誰にでも親しいということは、誰とも特別に親しくないということだ。社交的な人間は悪人に対しても社交的になれる。
僕は確かな距離のある関係に安心して、発展しないことが嬉しかった。
姫野さんは右手に持った本を僕に見せる。読んだことのない本だった。
「破戒という明治後期に書かれた小説です」
赤い背表紙には『破戒』と書かれている。作者は島崎藤村(しまざきとうそん)。名前は知っているけれど、読んだことはない。
「随分と昔なんですね」
「だけど色褪せないよ。近代文学はずっと普遍的なものだから」
「……へえ」
「また適当なのを見繕っておくよ」
人の好い笑みを浮かべたまま、姫野さんは受付に戻っていく。川上さんはまだ受付に坐っていて、僕と姫野さんのやり取りを睨むように眺めていた。なだらかな柳眉に、鋭い目付きが非対称である。月のような丸い瞳の緊張感がない人物を知っているせいか、目許で人を判断することを疑わない。どうにも性質(たち)の悪い癖ではあったが、判断は概ね正確だった。川上さんは観察して判断する。本を選んでもらっている僕を観察している。
人に本を選んでもらうのは、言いようのない気恥ずかしさがあるものだけれど、姫野さんに対しては特に抵抗もなかった。姫野さん自身が読書に関して、煩わしい束縛を一切受けていないのもある。もしくは図書館司書という職業故にかもしれない。長田真夜に適う小説を選ぶのが、当然だと合意してくれる職業が司書だった。書物を管轄し、自由に求めることを請け負ってくれる存在。大袈裟に言うならば、静かな孤独が同意された場所が図書館であり、在り方を保障するのが司書なのだろう。
大仰な理想を司書に被せるのは、偏(ひとえ)に憧れからで間違いない。図書館司書という仕事に執着していたのは事実だった。小説が好きだった。代わりなんて利かないほどに触れすぎていたし、書物を媒介した精神的支柱の独立を目論むほどには図に乗っていた。
理想を履き違えてしまうかもしれない。余計なことばかりを考えて、進む足取りも泥の感情に呑まれて苦慮している。白々しくも魔が差したなら、識閾下にあるすべての順序は霧散する。危うい均衡は些細な事物が崩していくし、何者かになろうとすれば輪郭は定形を保てなかった。
図書館から持ち帰るのは同意だけで充分だった。安易な共感こそが、自己を軽々しくするのだと判っていた。共有することが僕にとっては遥かに危険な心理だった。些末な感情の一部でさえ、他人に預けることは危険である。見えない感情も物理法則に則って平均化しようとする。二人の重量は仰ぎ見るものを死角にまで引き下げてしまう。感情は当初から変質して無闇に重くなる。落ちていかないために、もしくは一人分を落ちていくために、最低でも外野には与り知らぬ、孤独という条件は達成されねばならなかった。
姫野さんの選書も限りなくグレーに近い。しかし、姫野さん自身が境界線を把握している節があって、こんな葛藤さえ看破している気配がある。相手の領域には決して踏み込まず、自分の領域にも、容易に踏み込ませないのだ。
閉館時刻まで二時間ぐらいしかないけれど、折角だから読んでいこうと思った。街並みの美学への興味は尽きなかったのだが、優先順位は目前の小説が勝っている。
僕は破戒の頁を開いた。

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