『感傷よりも青い月』5
頭が痛い。酒が入っていた所為か、快適な寝覚めとは言えない。柔らかすぎるベッドも肌に合わなかった。朝の陽射しも、寝惚け眼には辛かった。開いた窓からは爽やかな風が吹いている。最低でも、寝汗に悩まされることはなかったようだ。億劫な身体に信号を伝え、横になったままサイドテーブルを漁る。外したままの腕時計を掴むと、顔の前に持ってくる。
時針は八時過ぎを指していた。
二階の部屋を出る。客間に続く廊下の二部屋が、堤達の部屋だった。居間に降りるために階段へ向かう。他も起きていることだろう。降りようとしたところで、客間の扉が開いた。顔を向けると京介だった。寝癖の酷い髪を手櫛で梳いている。客間から出てきたのを見ると、バルコニーで朝の一服を済ませてきたのだろう。
「下に行くのか」まだ眠そうな声で京介は言う。
「うん」なんの意味もない会話だった。
京介と共に階段を降りる。降りた廊下を左手に行くと居間で、右に進むと、籐次郎の自室へと続いている。そちらに眼をやると、扉の前で立っている乾と眼が合った。
「どうすればいいんでしょう……綾子さんが」乾の顔は険しかった。昨日の夜に見せた笑顔が嘘のように、表情や仕草には余裕がなかった。堤達は急いで駆け寄る。
「なにがあったんですか。綾子さんになにか?」
「それが……屋敷のどこにもいないんです」乾の顔が青くなる。自分の言ったことが信じられないように、肩は小刻みに震えている。
「外はどうです。屋敷の周りや、車の中にいる可能性は?」京介は目聡く指摘する。乾はぶるぶると首を振った。
「外周や車にもです。先生にも伝えようと思って部屋まで来たんですが、呼び掛けても反応がありません」乾は唇の端を噛む。
「反応がないだって?」堤は驚愕した。非常事態に直面した思考が、不穏な想像を弥が上にも働かせてしまう。最悪のイメージを脳が見せる。追い出すように頭を振った。扉には外鍵がなかった。ドアノブを捻って、呼び掛けるが応答はない。我知らず、大きな声を発していたようだ。乾が不安気な瞳を向けていた。
「外から部屋の窓に入ることは可能ですか?」堤は聞く。
「はい……可能だと思います。そんなに狭い窓じゃありませんから」
「外から部屋の様子を見てきます。京介さんも一緒に。窓の高さによっては、一人じゃよじ登れないかもしれない」
「ああ」京介は強く頷いた。眠気は吹き飛んだようだ。
「乾さんはここで呼び掛けを続けてください」
「はい、どうかお願いします」
声と表情が切実さに満ちていた。痛切な願いを背中に受けて、堤は走った。靴を突っかけ、玄関を出る。屋敷に沿って、籐次郎の居室へと急ぐ。周りを塀に囲まれていたが、建物との間には、人が通ることのできる隙間は充分にあった。部屋の窓であろう場所に辿り着く。少し遅れ、京介も息を乱して到着する。
「窓、開いてるか!」京介は叫んだ。
網戸は既に開かれていた。窓も開けようと試みるが、当然のように鍵が掛かっている。外鍵の類いもなく、室内はカーテンが引かれていて、様子を窺うこともできない。幸いにも腰高窓だったから、上るのには苦労しなさそうだった。問題は窓をなにで破るかだった。
「どけ!」振り返ると、京介が拳大の石を振りかぶっている。慌てて仰け反ると、石で窓を叩き割った。激しい音を立てて硝子が割れる。硝子は室内に飛んでいる。中の人間が怪我などをしていなければいいが、確認しないことには始まらない。
堤は割れた窓に気を付けながら、手を差し込んで、クレセント錠を外した。窓を開いて、破片に気を付けながら室内に飛び込んだ。
部屋の中は蒸し暑い。窓はずっと閉められていたようだった。顔に掛かるカーテンを開く。一目で脳が異常を察知する。日常の違和感、明確な歪みは僅かな思考停止を引き起こす。サイドテーブルに置かれたままの眼鏡、ベッドの上で籐次郎は俯せに眠っている……ようにしか見えなかった。ある一点だけが歪んでいる。遅れて、京介も窓から飛び込んでくる。彼もまた室内の光景に絶句したように立ち竦む。
籐次郎は布団も被らずに、浴衣姿で寝ていた。こんなにも暑い部屋で、なぜ窓を閉め切っていたのか。俯せになった背中には包丁が突き立てられていた。ちょうど胸の位置に当たる場所だろう。傷口を中心に赤黒い液体がベッドに広がっている。
「堤さん、開けてください!」窓を破った音を聞いたのだろう。乾が扉を激しく叩いている。ふらふらと歩いて、扉に向かう。そして、ベッドに隠れて見えなかったものが現れる。
ベッドの端に倒れ込むようにして、綾子が倒れていた。純白のワンピースには一点の赤も見当たらない。外傷はないようだ。しかし、身体を揺すっても彼女は眼を覚まさなかった。扉は狂ったように叩かれている。
陶器のように白い肌、端整な顔立ちは触れれば欠けてしまうような、危うい美しさがあった。陽射しに照らされた髪は、赤味の強い赤茶色だ。堤は非道く意外に感じた。
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