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『最高の図書館』7

第二章 笑い飛ばしてしまえばいい


本を読む。誰かと一緒にその時間を共有するリスクは確かに存在している。元来、書物とは孤独な性質のものであり、独りで読まれ、独りで書かれるものだろう。例外は少なからず存在するが、大多数はそうである。読み手は書物を独りで読み解いていく。言葉とは音であり信号である。文字とは視覚から情報を得る信号である。同時に文字は読むものでもある。文字の多くは発音が可能なもので構成されている。実際に構成したものを広義に於いて文章という。文字は音を内在し、文章は言葉を想起する。朗読は文章を音として顕在化するものと言ってもいい。しかし、そんなことをしなくても人は文章を音として読んでいる。文章を読んでも語呂の悪いのは伝わるものである。音に置換した際に違和感のある文章を悪文という。流暢な文章とは音に依存した概念と言える。だからといって、歴史が言葉と文章を結び付けなかったとしたら、世に遍く文章の悉くが悪文に成り下がることだろう。そうならないことに感謝して、さあ。

本を読む。つまりは文章の起源が言葉なのか、言葉の起源が文章なのか、後者だったような気がするのは活字贔屓から来るものだろうか。とはいえ、確定させるために調べる気にもならない。そもそもが文字にも起源はある。象形を由来とするものなどは判りやすいが、体系は多岐に渡るため、難しい部分が多い。先天的な聾唖(ろうあ)者が言語や文章を習得するのが難しいのは文章が音に依存したものだからだ。習得のプロセスが普通とは違うものになる。視覚的情報からのアプローチ、つまりは手話や読唇術から言語に近付いていく。 しかし、子音の別は読唇術には難しい。読唇術が音を読み取る技術でしかなく、極めて受動的で一方的なものである証拠だろう。対話には適わない。手話こそが、より高度な方法といえるだろう。障害に対するもっとも理想的で楽観的な方法が読唇術だとすれば、手話はより現実に即した伝達手段である。聾唖者が獲得した言語とも言える。
赤い物を赤いと伝えるのに、人間はどれだけの時間を掛けたのだろう。聾唖者との対話に於いて、我々は重大な言語障害に陥る…………。

本を読む。話しは脱線するほどに複雑さを増すという話しをすると、更に話しが逸れそうなので遠慮することにする。読書体験というのは語り合うほどに散逸する。違う感想というものは求められていないことなのだ。それは批評の役割である。巷の書評なんていうのは言いたいことを言ってもらうためのものだ。共感を求めて行うことである。別にそれでいい。それが目的でやっている分にはそれで構わない。問題は真剣にそれを咀嚼する人間が触れていいかどうかである。溢れかえる下世話な批評を耳にしたならば、なるほど、孤高の面持ちというわけだ。真剣に取り組むことが決して恥ずべきことではないとしても、それを嘲笑する輩は後を絶たないだろう。どういう面差しでそれを迎えるべきか――笑い飛ばしてしまえばいい――なに一つ相手に与えぬように。

「長田」
書店には軽快な音楽が流れていて、呼び掛ける声も同じくらいに軽快だった。
「なに」
自身の返す声は信じられないくらいに重たく暗い。読書体験から醒める瞬間というのは寝起きのように気分が優れないもので、このときは一層にそんな感じだった。
「いつもどこに行ってるの?」
瑞希は今日も漫画を読んでいる。身長差の関係でどうしても見上げる形になるからか、読んでいる漫画の表紙が見える。興味がないわけではない。いつも隣で一緒に読んではいたが、そもそものジャンルが違うからか、内容について語ることはなかった。興味を見せたことのない相手に延々と魅力を説明するのは、大いに躊躇(ためら)われることだっただろうから、まあ妥当なところである。
「いつもっていつ?」
「私と別れた後だよ」
なるほど、そう来たか。内心の動揺を気取られないように、全力で自分を偽装する。
「当てたら、教えるよ」
我ながら、アンフェアな賭けである。
「私の知らないところでしょ?」
「正解」
「じゃあ、教えてください」
隠すのも不自然なだけだろうか。何事にも適当な度合いがある。
「図書館だよ」
「学校の近くの?」
「いや、違うとこ」
「どこのこと?」
「帰り道の近くにある」
「行ってもいい?」
僕は首を傾けて、悩む振りをする。上手く表情を作れているかは心配だったけれど、自分の場合は意識すると却(かえ)って不自然になる。最初から教える気がないのなら、堂々としていればよかった。
「この時期だとなあ」
「なにか問題が?」
瑞希は子供のように聞き返してくる。好奇心が勝るのだろう。すぐに口を挟みたがる。そんな様子は微笑ましいが、ペースを崩されやすいのも確かだった。
「瑞希さんと違って、真面目な学生が多いんだ」
当の本人はぴんと来ていない。言葉を重ねるほど白々しくなる自分に苦笑しながらも、先を続ける。
「この時期の図書館は三年が自習で使ってるんだよ」
「あ、そっか」
「そうなんです」
瑞希は得心のいったように頷く。自習する人間で混むのは本当だったけれど、それは学校近くの本館の話しである。三郷分館では自習利用を禁止しているため、生徒の姿を見掛けることはなかった。職員はともかく、利用者の平均年齢は概ねにして高い。
「じゃあ、仕方ないか――諦める」
一緒にいるのを同級生に知られたくないのだろう。疑念や噂は簡単に広まるものだからだ。抜けてそうに思えても、瑞希は意外と冷静だった。
「まあ、大して面白いものもないよ。漫画もないし」
「うん、判ってるよ……私は」
瑞希は急に押し黙った。どうしたのかと顔を見上げれば、じっとこちらを見返している。大きな瞳は透明な視線を露わにする。
「猫の威嚇みたい」
「よく判んないけど莫迦にしてるでしょ」
呆れたように瑞希は言った。からかうつもりはなかった。気恥ずかしさから咄嗟に出た言葉だ。無垢な瞳を受け入れられるほど、素直になれない証拠だった。
「またいつか、機会があれば行けばいいよ」
「一人で行く気はしないかなあ。やっぱり一緒に行こうよ」
「うん?」
「受験が終われば、自習生もいなくなるでしょ」
うんうんと一人で頷いて、瑞希はまた漫画を読み始めた。嘘は方便と言うけれど、結局は面倒な約束を取り付けられるのだから、いまいち甲斐がなかった。

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