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トロイメント【『pluː vol.01』刊行記念リレー企画】

東大純愛同好会は、同人誌『pluː vol.01』の刊行を記念して、サークルメンバーによるブログリレーの企画を行っています。
本記事は、その10本目になります。
執筆者は、myuma(同人誌の担当箇所:座談会、寄稿、デザイン)です。


いつもぐったりと、できるだけ何もせずに過ごしている。怠惰というのは、(時間が)常に追いかけてくるので、できるだけ遠ざかろうとする意志でもある(と主張する)。
時間が加速することを避けたく、ものごとに集中したり、没頭することに恐怖心を持っている。

時間の「楽しいことはすぐにすぎ、つらいことは長引く」ことについて幼少のころドクサがあり、「自分の望むものは何者か(神様)によって見通されていて、期待するものと反対の結果しか与えられない。自分の欲しいものはその何者か(神様)に悟られないようにしなければならない。」ということだった。
飛躍して欲求というものを意識上にあげないように、つまり自分の欲求に目を瞑り、それを無いこととする(より正確には無意識に追いやる)、そんな感性の操作に尽力した。
自分の感覚がそのまま世界のルールだったころに形成した神話が、成人した今無意識の強迫観念となり、自分の人生を実存というより義務としているようだ。

当然強制される義務は辛いばかりだが、確信を持って自ら定めた法に従うことにはある種の満足感がある。なるべく制限し自由という可能性を打ち消して、できるだけ選択を避けたいと思っている。選択するということは自分をさらけ出す素直な欲求の告白であるために避けなければいけないことである。
選択的行動を避けるのは単に主体性の無さ、意思決定力の弱さと捉えられるかもしれないが、煮え切らない態度の奥には複雑でとてつもない欲望がひそみ、好機をうかがっているのだ。

そうして何もしていない間は一体何をしているのか、というと可能性が迫って選択へと姿を変えてしまう距離にまで近づきすぎないように、現在より一歩退いて未来を見つめている。ところでその「待機」状態は希望や期待で満ちており、光は消えずに心地よい空間である。いつまでもそこにいられる。たまに必然であるかのように飛び込んでくる事態があるが、そういうものを受け入れるためのそのような空間でもある。夢見る乙女と言いたいところだが、実際は血眼の見張り番という感じである。

私たちは何かを求め、探し、どうしようもなく囚われている。人生をかけてそれを手に入れようともがく。あるいは背いたりしても逃れられない欠乏がある。生活とはそれを埋めてゆくことだ。空間を満たすことを考える。求める人は大空を羽ばたく翼よりも、包み込む両腕が欲しい。嘘つきな唇を塞ぐキスが欲しい。求めているのはひろがりではなく、解放ではなく、ふかふかのベッド。眠りに落ちて永遠に夢の中に綴じられること。


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