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2020年年末瀬戸内ぐるっと旅行(3日目/鞆の浦→姫路→東京)

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3日目の行程

旅行も最終日だ。この日は土曜日というのに思いっきり早起きして朝の静けさの中鞆の浦を覗いてそこから姫路の観光をして東京さ帰るだ。

朝の鞆の浦

福山で夜を明かし、6時台に起きてホテルの朝食バイキングで腹ごしらえをする。あさよわ人間なので正直後悔した。最近は早すぎる時間に起きると正午を過ぎないとなかなか飯を食えない体になってしまった。中高時代ならまずありえないことだったので体の衰えを感じる。
鞆の浦へは、福山駅の南口のバスターミナルから発着している鞆鉄バスの鞆港行きのバスにほぼ終点まで乗れば良い。1時間に2本ほどは出ているようで、そこまでバスの本数の心配はそこまで必要なさそうだ。朝8時ちょっと過ぎくらいのバスに乗って真っ先に向かった。余談ではあるが、バスで向かう途中で、日本史Bでやるであろう草戸千軒の遺跡があったあたりを通過するのだが、車窓から見てみてもわからない感じだった。次に行った時にもう少しじっくり観察してみようかな。

瀬戸内国立公園鞆の浦

朝の鞆の浦はとても静かである。福山市の郊外で、ごくごく普通に住宅街になっている。そのように福山市の郊外としての側面を持つ以前から、ここには多くの人が集まる相応の理由があった。瀬戸内海の海流は、西の豊後水道と東の紀伊水道の影響を受けている。満潮時にはそれぞれの水道から鞆の浦に向かって潮が流れる。逆に干潮時は鞆の浦の方からそれぞれの水道に向かって潮の流れが発生する。ちょうど豊後水道と紀伊水道の中間地点に位置していた鞆の浦は、潮の満ち引きを利用して船舶を航行させていた(このような航法を地乗りというそうだ)時代において、潮待ちの地点として極めて良い立地だった。その関係で船乗りたちの宿場として古代から発展していった。そして、潮待ちの場としての活躍は、航海技術の発達によって沖乗りが主流となる江戸時代にまで続くこととなる。
また、足利尊氏が新田義貞追討の院宣を受け取った場所でもあり、京を追放された足利義昭が当時鞆を治めていた渡辺氏と中国地方の戦国武将としておなじみの毛利氏の支援も受けつつ織田信長の打倒を画策していた場所でもあり、室町幕府との関係も深い。そのような関係について、頼山陽は「足利は鞆で興り、鞆で滅びた」と評した。
※頼山陽については、同じく広島県の竹原市の歴史民俗資料館で展示があった気がする。昔行ったことある記憶だと。

穏やかな湾内
このような古い家屋と石畳の狭めの路地があちこちにあって歩いていてワクワクする
保命酒

鞆の浦を歩いているとよくこの保命酒の看板を見かけると思う。これは大坂の漢方医が鞆に移り住んだ時に鞆奉行の許可を得て焼酎に秘伝の薬法を加えたものだそうで、鞆に寄港した朝鮮通信使や先ほど少し紹介した頼山陽、あのペリーやハリスも飲んだことがあるらしい逸品だそうだ。もっとも、保命酒を発明した大坂の漢方医は、独占的な商売で一躍豪商に成り上がったものの、藩の保護を失い保命酒の専売ができなくなり、明治時代に廃業してしまった模様。そのため、現在鞆の浦で保命酒を販売している製造元は、明治時代に開業したところだそう。

海との間に柵はないから気をつけよう
常夜灯、鞆の浦の歴史の中では1859年に建てられたというので比較的新しい方、灯台としての役割を果たすために建てられたが、今は専ら観光のモニュメントだろう。
オンボロの酒の自販機だ

写真にはあいにく収めていなかったが、鞆の浦を一望できる小高い丘に鞆の浦歴史民俗資料館という場所がある。ここでは弥生時代あたりからの鞆の浦での人類の定住の歴史から日本史上における鞆の浦の役目や風俗、生活、文化についての展示がなされている。日本史に興味関心のある人なら凸ってみるのも一興だろう。

鞆の浦の歴史は、船の潮待ちと共にあったといっても過言ではなかったが、江戸時代以降の航海技術の発展で潮待ちの港としての役目は徐々に終わりを迎えていき、明治時代以降の近代化は、その隔てられた地形故に一歩遅れる形となった。その結果として今でも残るような古い建築物が残っているから悪いことばかりではなかったが、交通の要衝としての役割はさらに低下していった。そのような鞆に鉄道がやってくるのは大正時代を俟たねばならなかった。それが鞆鉄道である。

バスの待合いスペースというかお土産屋と一体化したところの小さなスペースにちょっとした展示がある。

鞆鉄道は、軽便鉄道として開業したが、終戦後の1950年代にはもうバスで良いだろうというので廃止になってしまった。かなり短い期間しか運行されていなかったが、その鉄道の足跡が鞆の浦に残されている。

赤穂線廻りで姫路へ

そういうわけで鞆の浦の探索を終えてバスで福山駅に戻ってくる。18きっぷを使い倒すべく福山駅から山陽本線の普通列車に乗車する。115系を楽しめるのはあとどれくらいだろうか、国鉄広島とまで言わしめた広島支社でもとうとう103系も115系も淘汰されていってしまっている中でまだまだ岡山地区では115系はバリバリ現役である。
岡山駅までやってきてお土産をあさりつつ昼飯を探す。乗り換えまでに時間はあれどもどこかのレストランに入って速攻で食べてというのではなんだか忙しないので駅弁を買うことにした。

鶏めしの駅弁を購入

さて、岡山から姫路に行くのには2通りある。普通に山陽本線を乗り通すか、途中赤穂線廻りで播州赤穂を経由して行く方法の2つだ。
ここで、京阪神地区を爆走する新快速がどちらに行っているのか思い出して欲しい。上郡行きもあったような気もするが、だいたい播州赤穂行きというのが多くなかっただろうか。岡山駅から山陽本線で行こうにも相生という駅までしか行けない。そして、相生から姫路までの普通列車に乗り換えが絶対に発生する。では、その相生から姫路まで行く普通列車の始発駅はどこか?播州赤穂駅である。確かに相生までなら山陽本線でダイレクトに行ったほうが早く着くし、赤穂線の方が一見遠回りに見える。しかし先に赤穂線で廻って播州赤穂発の列車に乗れば、相生で待ちぼうけを喰らっているところに結局間に合ってトントンなのでは?ということは座れる確立が飛躍的に上がるルートはどっちでしょう?

答えは簡単、赤穂線経由である。

213系(写真右)がお出迎え

赤穂線の座席を確保して駅弁をかっこむ。長船あたりまでは地元の中高生で2両編成の列車は混雑していたが、徐々に空いてきた。途中小豆島への玄関口の日生、シンデレラガールズとのコラボもあった備前焼で有名な備前市あたりを走行し、播州赤穂へ到着。時刻表通り、姫路行きの普通列車に接続した。案の定相生駅は山陽本線からの乗客でごった返していた。当然こちらは座席を確保して混雑しているものの終点まで座っていくことができた。
こういうちょっとしたテクニックも含めて、18きっぱー的に赤穂線は使い勝手のある路線である。

姫路市内観光

最後に姫路に降り立ったのは多分2013年の3月あたりだったと思う。この時この後紹介する姫路モノレールの駅とアパートが合体した大将軍駅の建物がもうすぐ解体されるかもしれないというので、朝5時台にサンライズを降りて撮影しに行ってその足で姫新線の撮影にまで行った。あのときは高校生だか中学生くらいでめちゃくちゃ体力あったし寒いのもなんとか堪えられたし早起きも余裕だった。それ以来、実に7年ぶりくらいに姫路駅に降り立った。

新しくなった姫路駅舎
駅前大通は石畳でいかにも城下町という雰囲気で、姫路城が通りから一直線で見えるように改良された。だいぶ変わった。

一応姫路城の手前まではこの後寄ったのだが、この旅のコンセプト的に目的地は別である。
山陽電車に一駅だけ乗って行く、手柄山を目指しているのだ。

普通列車は短い3両編成
手柄山中央公園はここから少し歩く。

手柄駅までのたった一駅の区間といえども、見どころはある。

姫路モノレールの橋脚とものすごく古そうな商店兼住宅

残念ながら高尾アパートは解体されてしまった(写真を撮っていたはずなのだがデータが散逸してしまった)ものの、その道中のモノレールの橋脚や橋脚と一体したコンクリートの商店はまだまだ残っているものがある。財政上の問題で完全に姫路モノレールの遺構を撤去できていないようである。だがそれでいいのだ。

1950年代から開発されてきた観光地としての手柄山、モノレールの廃駅はもちろんのこと、水族館や球場も未だに抱えている。図書館も昔はあったらしい。

さっきから姫路モノレールと煩い筆者だが、姫路にはかつて本当にモノレールがあったのだ。もっとも、朝9時台にならないと始発列車が運転されず、終電も18時前には終わってしまうという有様で専ら手柄山の観光のための路線というので、姫路市内の通勤通学、手柄山地区の住民の足として役に立つとは言えず、開業からたったの8年で休止、その5年後には廃止されてしまった。そんないわくつきの交通機関だが、奇跡的にその遺構は近年まで完全に解体されずに残っており、車両もこの手柄山にあった駅跡地で永らく保存されていた。先程紹介した高尾アパートという建物の中間部にモノレールの駅がある駅と住宅が一体化した時代をだいぶ先取りしすぎた施設が老朽化で住民の立ち退きと共に解体されてしまったが、この度手柄山駅跡を活用して姫路モノレールの実車を展示するスペースがオープンしたのである。

当時の駅の施設を再利用しているようだ、ホームにあったであろう当時の時刻表や灘菊酒造の広告も復元されている。
車内にも立ち入れる。当時の車内アナウンスも聞ける。

高尾アパートについて気になった方はこちらのサイトを参照されると解体前の写真が載っているので参考になるだろうか。

手柄山の見学を終えたもののいい感じの時間になってきてしまった。姫路城の奥まで探索している時間までは残念ながらなさそうなので、外観だけ見て帰るということにした。

次こそはじっくり見よう

今日も18きっぷを使っている。姫路から新幹線に乗って東京まで帰ることは容易い。しかし、せっかくだから18きっぷを使い倒してから東京まで新幹線課金したい。そういうわけで、新大阪まで新快速で爆速ブッパすることにした。

223系、JR西日本在来線のエース

AシートというJR東でいうところの普通列車グリーン車に相当するような特別席がJR東海道・山陽本線に投入されたらしいが、まだまだすべての車両に導入されたわけではない。しかし、それでなくとも、クロスシートで進行方向を向きながら山陽本線をひたすら爆速で大阪に向けてひた走る新快速はやはり京阪神の特権である。乗っているだけで楽しい。関東の人間からすればわざわざ特別シートに課金するまでもなくおもしろい体験、非日常である。関東の東海道線や横須賀線でもここまで爆速で飛ばさない。でもこっちは130km近くまで速度を上げる。
16時1分過ぎくらいに出発したのに17:05くらいにはもう新大阪に到着してしまっているのだ、恐るべき速さだ。

始発ののぞみで帰ろう

調子に乗って京都まで行こうかいやどうせなら名古屋くらいまで在来線でブッパしようかそんなことが頭をよぎったがそれをやるとさすがに遅くなりすぎるので新大阪で離脱して大人しく新幹線で帰ることにした。年末とはいえ発車直前にのぞみの座席を取れてしまった。
これにて、私の2020年年末瀬戸内縦覧旅行は終わってしまったのである。最後は思いっきり関西に首を突っ込んでしまったが。次は、どこへ行こうかな。早くマスクなしで自由にあちこち行けるようになればいいなという小さな期待を胸に東京駅に降り立ち、帰路に着いた。

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