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夢から醒めたピエロ -この世とは道化を演じる舞台である-

冒頭から倫理的にどうかと思う事をバサッと言ってしまうが、私は安易に「自殺はいけない。ダメだよ」という人が大嫌いである。

身の回りの人間を自殺で喪った事がある人が、その体験に基づいて言うなら分かる。私が嫌いなのは、よく考えもせずに”倫理的に良くない事だから”という理由だけでこの言葉を無責任に発する人だ。

なぜなら、人生とは基本的に絶望的だからだ。
ゲームのミッションのように、コンスタントに目標が与えられるわけではない。学校や仕事など細々としたミッションはあるが、どのルートを取っても最終的に”死”という最期が待っているのみである。
「なぜ自分は生きているのだろう?人生とは何か?」
こう自分に問いかけた事がある人も多いのではないだろうか。

心身が疲れ果てた時、こんなに苦しいならいっそ死んで楽になってしまおうという選択肢。
人生はその人のものであり、この選択肢を選んでしまうのも、言ってしまえばその人の自由である。


昔から宗教というものが存在する。
藁にもすがる思いの人たちに希望を与え、救済する為。
現代は”無宗教”の人が増えているが、単に”神”の形が多様化しただけだと思う。従来の宗教という形に拘らなくなっただけだ。
音楽でもゲームでもアイドルでもスポーツ観戦でも、何でもいい。
アイドルのコンサートも野球の試合も、ある人にとっては崇高な宗教行事である。
人に生きる意味と希望を与えればそれは宗教なのだ。いまや宗教の形は無限大である。

そう、宗教は人に希望を与える。希望を与えられた結果、盲目的になる場合もあるが。本人にとって幸せで他人に迷惑をかけないのなら、それでいいのだろう。
宗教なしで生きる事はありえない。ここで言う宗教とは、前述の通り一般的に宗教と言われているものだけではない。多種多様、人それぞれである。
生きがい、と表現した方が分かりやすいだろうか。
この生きがいを持たない人は、ただただ苦痛の中で人生をおくる事になる。


人生とは舞台だ。我々は道化を演じさせられているに過ぎない。
なぜ演じなければいけないのか?理由は与えられない。

もしかしたら、何の疑念も湧かずに楽しく踊り続ける人もいるかもしれない。だが、ふっと我に帰る瞬間がある人もいるだろう。

「一体自分は何をやっているんだ?」

突然この疑念がふっと湧く場合もあるし、あるいは観客から誹謗中傷のヤジを浴びせかけられた時にこう思うかもしれない。
すると突然、夢から醒める。舞台が作り出されたものに過ぎないように、この世のあらゆるものがまやかしにしか思えなくなる。
これまでのあらゆるものが崩れ去っていく。
こうなると、真面目に演じるのが馬鹿馬鹿しくなる。
道化は踊る気力を失い、虚無を感じるようになる。

舞台を降りる道化も一定数いるだろう。本当に狂ってしまう道化もいるかもしれない。
だが、何とか抗って舞台に立ち続ける道化もいる。

この舞台がまやかしに過ぎないと気付いてしまったうえで。
それでも、舞台が終わるまで全力で演じきってやろうと抗い続けるピエロたち。
たとえボロボロだったとしても。
彼らの演技の中には、”本物”を見出す事が出来るだろう。
夢から醒めた事もなく、能天気に演じ続けている連中には無いものがそこにある。

そんな道化たちに、私は'Bravo!'と歓声を送りたい。

ーーー

境遇によって…例えば家庭に恵まれなかったとかイジメにあったとか色々理由はあるが、舞台のかなり始まりの段階で、演じる事についていけなくなった人たちもたくさんいるだろう。
もちろんその境遇には同情する。だが、それをいつまでも言い訳にしていてはならないと私は言いたい。
境遇こそ差あれ、どんな演技をするかはその人次第なのだ。踊り続けるのが嫌になってどうすればいいか分からなくなったら、その場に座り込んでゆっくり休んで考えるなり何なりすればいい。

結局、どこかで開き直る必要があるのだ。
ろくに演技もせず「私はこんな境遇なんだ!かわいそうなんだ!同情してくれ!こんな楽しくもない舞台から本当は今すぐ降りたいんだ!」と永遠に叫び続けていたら、誰にも見向きもされなくなるだろう。

能天気なピエロ、抗うピエロ、嫌々と叫び続けるピエロ、狂ってしまったピエロ、舞台を降りるピエロ。
私は抗い続けるピエロなので、いつまでも嫌々と叫び続けるピエロに「いつまで駄々をこねているんだ?諦めてどうするか考えろ」と言いたくなってしまう。

ーーー

最後に、冒頭の話の補足を。
安易に何も考えず「自殺はいけない」という人間が嫌いだと言ったが。
私自身は、出来ればみんな生き続けてほしいと、舞台を降りてほしくないと思う。
もしも自分の周りの人間が死んだらとても悲しいだろう。
昔、バイト先の先輩が辞めて随分経ってから自殺したと聞いた。ほぼ関わりのないどころか大して好きでもない先輩だったのだが、それでも心がざわざわした覚えがある。


「生きろ」
個人的なエゴに過ぎないし、残酷な言葉だと自覚している。
それでも、それでもだ。
やっぱり、何とかして生きてほしい、抗って舞台に立ち続けてほしいと祈ってしまうのだ。

もしも誰かが自分に「死にたい」と相談してきたら。
生きるか死ぬかは自由だ。ただ、君が死んだら私はとても悲しいよとだけ伝えるだろう。



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