見出し画像

毒親?、家出、離婚・・・自分のこれまでを振り返ってみる


うつわ屋enの佐原舞です。

今回はちょっとヘビーな内容ですが、不幸自慢をしたい訳ではなく。

自分の過去を振り返り、これまでの自分をアウトプットすることで「自分の価値観」を整理したいなと。

( 実はこれまでも何回かチャレンジしていたのですが、内容が複雑なだけにうまく表現できずにいました。)

楽しい話ではないので先にすいませんと言っておきます。
気分を悪くする方はバックしてください。

4人きょうだいの末っ子

生まれは長崎市内の方で、幼少期は佐賀県伊万里市で育ち、小学校から19歳まで佐世保で過ごしました。

腹違いの姉と兄、同じ母から生まれた姉と私の4人きょうだい。

一番上の姉とは10歳離れており、共働きで遅く帰ってくる両親の代わりに面倒を見てもらったのをうっすら覚えています。

そして、ゲームをすればいつもビリ。
負けては怒ってコントローラーをぶん投げ、よく叱られたことも覚えています。

私が目標として設定する人や物事は常に遠い存在なのですが、思い返せば末っ子だったからかもしれませんね。

記憶に残っているのは両親の喧嘩

家族で海に行ったり、潮干狩りをしたり、楽しいこともたくさんあったはずなんですが、マイナスの記憶というのは強烈なもので、幸せな記憶をかき消してしまいます。

はっきり覚えているのはどれも両親の喧嘩のシーンばかり。

毎日のようにケンカしては皿が割れ、壁に穴があき、家の中がめちゃくちゃになり、取っ組み合いに殴り合い。

救急車を呼んだこともあったし、血溜まり(たぶん鼻血)や、母の顔が一面紫色になったこともありました。

明け方まで続く日も幾度となくあり、寝不足な日々でした。それは遠足の前日も、卒業式の前日も、未栄なく。

初めのころは止めに入っていたものの、慣れてくると感覚が麻痺するのか、「またかー」となるだけ。

耳を塞ぎ、「早く終われ、早く終われ・・・」と願う毎日。

そして日中、父や母から出る言葉はお互いの悪口ばかり。
離婚、離婚と口走る割には一向に離婚しない両親。

なぜこんな親の元に生まれてきてしまったのか、自分はなんのために生まれたのか、幸せってなんなのか。

生きる意味がわからない時期でした。

近年では、「子供の前で毎日ケンカをすることは虐待にあたる」と認められるようになり、子が親を訴えるなんて事もあるそうですが・・・

この当時はまだ、「なにがあっても親子だから」の一言で片付けられる時代でした。
誰に相談してもそれで終わり。

でも、世の中には親が子供を虐待したり、殺してしまったりと不条理なことが起きている。

なぜみんなその言葉で片付けられるんだろう?
と憤りを感じていました。

でもこの経験こそが、私の芯となる部分だった。

「自分の力では解決できない環境に置かれている人の力になりたい」という想いが常にあるのは、不条理な自分の人生に憤りを感じていたからだと思うのです。
( まだ何の役にも立ててないけど )

人生のドン底は中学2年

中学に入ると誰もが直面するであろう、いじめ問題。
私は加害者も被害者も経験しました。
( 昔の自分に会えるなら一喝してやりたい )

中学2〜3年までは不登校気味でした。

いじめられていたというのもありますし、家では相変わらずスットンバッタンと喧嘩している両親のせいで寝不足だったのもあります。

なぜか怪奇現象まで起きてました。笑
( 私が1人のときテレビが勝手に消えたりついたりしていて、毎日金縛りにあっててめちゃくちゃ怖かった )

家にも学校にも心の拠り所がなく、何度も死について考えた時期でした。

今となっては狭い世界にいただけだったとわかるけど。

ターニングポイントとなったのは担任の先生からの言葉

そんな時期を乗り越えることができたのは、1人の友人と担任の先生のおかげでした。

1人の人間として向き合ってくれた存在。

私の芯であり、生きる力を与えてくれた担任の先生からの一言は、「自分を救えるのは自分しかおらんとよ。」でした。

どんなに辛いことがあっても、他人は助けてくれないし助けられない事が多いと。

自分のことは自分で守るしかないのだと。

その言葉をもらってからやっと、自分の将来のことを少し考え始めることができました。

Instagramの自己紹介にも似たようなことを書いていたのを思い出し、今でもそれが私のモットーなのだと改めて感じた部分です。

福岡へ行き、自分にとって仕事とは何か?が成形される。

高校は通信制へ行き、アルバイトをしながら一人暮らしのためのお金を貯める毎日に明け暮れました。

卒業後はUNIQLOに入社し ( といってもアルバイトからスタートして、準社員になっただけ )、社会の洗礼をビッシバシ受けました。

だけどいろんなノウハウが学べて楽しかったんです。

そして20歳になる前、福岡へ。
ここで私はとても貴重な体験をしました。

この頃の私といえば、やっと両親の呪縛から解き放たれ、20歳を目前にキラキラとした都会の世界でとにかく欲しいものがたくさん。

それにはたくさんのお金が必要でした。

そこで、高時給であるデパ地下の紅茶ギフトを販売するアルバイトを始めたのですが・・

とにかく、平日はとーーーーーーーっても暇。
なんなら土日もそんなにお客様は来ない。
当時、紅茶に興味もなかった。

一緒のフロアにいるおじさんおばさんとおしゃべりしたり、ギフト用のリボンを作ったり、ボーっとする時間の方が長かったのを覚えています。
( 真面目に仕事しろ? )

その仕事はすぐに辞め、『いくらお給料が良くても、興味の持てない仕事はストレスだ。』と理解しました。

それからというもの、仕事を選ぶ基準は『お金』よりも『やりがい』を求めるようになりました。
( もちろん生活に必要なお金はいるけど )

この価値観があったからこそ、今の主人が美容室を始める時に背中を押せたんだと思います。

25歳で結婚、出産、離婚。

実は19歳から両親とは連絡をとっておらず、音信不通なまま福岡に行っていました。

両親の呪縛から解き放たれ、さぞ清々しいかと思いきや・・・やはり人間、1人になるのは怖さもありました。

そんな不安定さから、焦りに焦って失敗した時期でした。
結婚し子供が産まれたものの、気づけば両親と同じように毎日ケンカをする日々。

これでは私と同じ道になってしまう。
そう思い、離婚を決意しました。

でも、子供を産んだことは後悔していません。
子供から教えられる事が多く、私の生きる糧となり、人生が豊かになったと感じています。

また、子供ができたことで、6年ぶりに実家へ帰るきっかけにもなりました。

離婚後、やむなく実家へ戻る

それから時は流れ、前の夫とは離婚することができたのですが・・・

福岡の都心部では保育園すら見つからない状態。
やむなく実家へ帰ることになります。
( 音信不通だったのに受け入れてくれた両親には感謝しています )

そこで待っていたのは相変わらずヒステリーな毎日でした。笑

ただ、両親の仕事の環境が変わったこともあり以前よりは落ち着いていたり、大人になって客観的に見れたことで前ほど精神は不安定ではありませんでした。

「自分のことは自分で」精神が強くしてくれたのだと思います。


働きたい会社が見つからない

佐世保へ帰り働こうとするも、「ここがいい!」という会社がみつからないことに強いストレスを感じました。

その時の話はこちら

夫との出会い

また、いつまでも実家にはいたくなかったので、
まずは持っていなかった車の免許を取りに行きました。

そこで今の夫と出会い・・・

「2度と結婚なんかするもんか!」と思っていたし、付き合っても長続きしたことなかったのに、あっという間に4年が過ぎました。

そして夫の美容室が軌道に乗った頃、入籍。

軌道に乗るまでもいろいろあり、それはこっちの記事で紹介しています。

今現在は、これまでの人生の中で1番幸せです。

負の連鎖の被害者

ここまでいろいろと書いてきましたが、私の両親も、負の連鎖に巻き込まれた被害者だと思うのです。

父の話を聞けば、「じいちゃんは包丁を持って追いかけ回していた」そうで。

そんな環境で育ったために、感覚が麻痺してしまったのかもしれません。私も同じく。

そんな人ってたくさんいると思うんです。

そして夫もまた、特殊な環境で育った人でした。

でもどこかで断ち切らなければ、続いてしまうもの。「できれば私たちのところで食い止めたいね」と常々話しています。

そのためには何が必要か?

心の余裕が持てるだけの資金と愛情だと思っています。

そのためには、稼ぐ知識と、人と向き合う知識が必要。

だから私は、働く人の事をもっと知りたいし、いろんな価値観に触れたい。
それを見える化したい。

うん、やっとここに辿り着いた。
だからこそやりたい事がこれなわけだ。

1人で納得。

おわり。


ついでに

今現在も両親は離婚しておらず、仲良く?暮らしています。

子や孫のため・・・と、ここまで耐えてきた忍耐力はすごいし、資金面でもたくさん工面してもらったことに変わりはない。

今では感謝の気持ちも持てるようになりました。
正直恨む気持ちもありますが、これも一つの愛の形なんだろうと思えるようになりました。

でも、こんなに悲しい思いをする人ができるだけ減って欲しいなと思います。

「地元には働きたい会社がない」という理由で地元を離れてしまう若者たち。そんな田舎で、「働きたい会社がないなら自分で作ってみよう」と思いうつわ屋さんを始めました。いつかは地元の「就職先」問題を解決するメディアを作りたく、サポート資金はそのメディア運営用の資金に貯金します!