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本当に望むものを知るには、逆に本当に望まないものを思う存分に味わう必要がある

この間、友人と
メッセージのやり取りをしていて
 

このタイトルにある
言葉を言ってもらったことが
とても大きな気づきとなった。
 

すべての人に通じるものかどうかは
わたしには分からないが
 

自分の人生を通して振り返ってみると
 

自分がここまで

「自分の心も人の心も大切に扱う」
ようになったのは

あまりにも苦しい体験を何度も何度も
体験してきたからだなと
 

改めて感じたのである。
 

自分が本当に望むものはなんなのかを知るには
 

自分が本当に望まないものを一度
体験する必要がある。
 

そういった意味で

わたしがこれほど
 

「人の心」というものを大切にしてきたのは
 

その辛い経験があったからこそなんだなと
改めて思ったのである。
 

必ずしも辛い体験をする必要があるのかどうかはわからない。
 

しかし、わたしの経験からすると
その辛い体験があったからこそ

いま
 

「人の心を大切にしようとする」
「人の心に耳を澄ませる」
 

意志が生まれたわけである。

その背景には
 

「人の心に耳を澄ませようとしない」
 

で自分の基準において
人を捌き続ける人たちに対する
激しい憤りがずっとずっとあった。
 

自分にとって
「自分の声を聴いて貰えないで頭ごなしに否定される」
ということが余りにも悲しいことだったので
 

「自分は絶対にそんなことはしない」
 

という意志が芽生えたんだ。
 

「自分の心も人の心も大切にしようとする意志」
 

を育んだのは、それらの体験のお陰でもある。
 

その経験を経ないでも
人の心を大切にするのが当たり前という時代や世界があるのかもしれないけれど
 

少なくともわたしにとっては
その経験がなければ、
 

「人の心を大切にしようとする意志」
 

は芽生えなかったと思う。
 

時代は変わる。
これからの時代に遺していきたい
ものと遺したくないものは
自分たちの決断と行いだけで選択できる。
 

それはいまここからできることでもある。
 

自分の人生がこの肉体が無くなること(死)が終わりだと思っていれば
 

「自分や自分に関係のある人だけよければいいや」
 

という近視眼的な、
そして快楽的で刹那的な
生き方で生きることもできるけど

「自分」という意識が

この肉体が終わってからでも
ずっとずっと存在しているという前提に立てば
 

より多くの人たちや存在が
心から生きられるように普段の行動も変わる。
 

わたしはわたしという
意識は永遠だと思っている。
 

この肉体が終われば
わたしという意識がなくなるとは
思っていない。
 

その前提に立った時
はじめて観える世界というものが
きっとある。
 

自分という存在が

「この体が終わったら終了」

と捉えるのか

自分という存在が

「永遠に続く」

と捉えるのかで

生き方は変わる。
 

ここから先は個人の選択だが

これからの時代、

「この肉体が終われば自分の人生は終了」

だという前提では
もう生きることが不可能という時代に
なってくると感じる。
 

「自分」という定義を変えること。
  

本当の問題はここにある。
 

この体だけが「自分」なのか
永遠に続く「自分」という意識が「自分」なのかで
 

生き方は全く変わる。
 

わたしは、永遠の存在として
この世界を観ようとそう決めてみた。

「大丈夫、大丈夫」

わたしという存在が
永遠ならば
 

この世界でなにが起きようとも
それは錯覚の世界の出来事。
 

「どんなことがあっても大丈夫」
 

という前提に立った時
 

わたしたちは
無限の可能性を発揮できる。
  

わたしは永遠、世界の変化は一瞬
 

「わたし」の定義を
変えると世界はどのように変わるのか
これから体験していこうと思います^_^

⬇︎LINE@やってます😊
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