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「いい子」とは「都合のいい子」の言い換えに過ぎない

小学校や中学校などで演劇ワークショップをすると、終わった後に先生から「普段とは違う子どもの姿が見られました」と言われることがよくある。

さらに、ワークショップ中は「積極的で素直で、いい子だなー」と思っていた子が、先生から「普段はよく怒られる子なんですが……」と言われてびっくりすることもある。

そこには、学校の授業における「いい子」像と、演劇(特に僕の場合はインプロ)ワークショップにおける「いい子」像の違いがある。

ざっくり言えば、学校の授業における「いい子」とはじっくり考え、答えにたどり着ける子どもなのだと思う。

もちろん、先生や授業によって違いはあるので、これは本当に「ざっくり」である。しかし、いずれにしてもそういう子のほうが「都合がいい」という構造はあるだろう。

それに対して、演劇ワークショップにおける「いい子」とはとりあえず試せて、そこから発見できる子どもなのだと思う。

もちろん、これもファシリテーターやワークショップによって違いはある。しかし、こちらでもそういう子のほうが「都合がいい」という構造はあるだろう。逆に言えば、演劇ワークショップにおいてじっくり考えられると困ってしまうこともある。それよりも、とりあえず動いてみる子のほうが助かる。

僕は個人的には後者の価値観のほうが好きだし、これからの時代に求められるものだとも思う(だから「アクティブ・ラーニング」が叫ばれるわけで)。しかし、「これが正しい」と言うつもりはない。それでは自由の顔をした強制にすぎない。

ただ思うのは、子どもが様々な価値観に触れられる機会があるといい、ということだ。「いい子」とは、所詮評価する人にとって「都合のいい子」の言い換えに過ぎない。

だから誰かの「いい子」に縛られる必要はない。例えば学校の中では「問題児」と見なされている子が、大人の鉄道仲間の中では「鉄道界のホープ」と見なされることもある。

そうやって、「世の中にはいろいろな価値観がある」と知ることは、その子が今後の人生を歩む上でとても大事なことだと思う。

さて、そんなことを考えていたら、「はたして大人の世界はどうなっているだろう?」と思った。

僕は少なくとも、大人の世界は子供の世界よりも多様な価値観に触れやすいと思っている。言い換えるならば、自分に合わない世界から抜け出しやすい。

一方で、いわゆる成功者の世界は未だにマッチョイズムに偏りすぎているとも思う。どんなに才能や魅力があっても、「マッチョ」でないと認められない。それはバランスが悪いと思う。

僕は子どもたちに、さまざまな価値観の世界に出会ってほしいと思っている。しかし、その先で多様な価値観が認められる世界になっているかというと、まだまだやるべきことがあるように思う。最近はそんなことを考えている。

P.S. 「自分の子どもに多様な価値観を経験させたい」という方はIMPRO KIDS TOKYOもご検討ください。上に書いたようなインプロの価値観に出会うことができます。もちろんそれが正解ではないとしても。

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