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即興で物語を作る方法と、恐怖について学んでいくこと

インプロ(即興演劇)は即興で演じたり、物語を作っていくものである。そのことについて話していると、「どうやって即興で物語を作るんですか?」と聞かれることがある。

この質問に対する究極の答えは「人間は本来、物語を語ることができる」である。それは夢を見ることと同じように自然なことである。

一方で、もう少しテクニカルに物語を作る方法(ストーリーテリング)を見ていくこともできる。ここでは「インプロの父」と呼ばれるキース・ジョンストンの方法論に則りながら、その方法をまとめてみようと思う。


そもそも、物語とは何か?

ストーリーテリングについて考える前に、そもそも「物語」とは何だろうか?それを考えるために、「物語ではないもの」について考えてみたいと思う。それは例えばこんなものだ。

男をギターをポロポロと弾いている。男は昼食にスパゲティーを食べる。男は散歩に出かける。男はパソコンで調べ物をしている。男は夕食にハヤシライスを食べる。男はテレビを見る。男は風呂に入る。男は眠りにつく。

これはある日の僕の記録である。だから「リアルではない」ことはない。むしろリアルそのものである。しかし、これを物語だと感じる人はほとんどいないだろう。

なぜなら、ここには「つながり」がないからである。出来事がバラバラに羅列されているだけでは、人はそこに物語を感じることができない。

物事につながりをつけること――まずはこれが即興で物語を作るときのコツである。

物事につながりをつけてみると

では先ほどの記録からスタートして、つながりをつけてみたらどうなるだろうか?するとこんな感じになる(ここからは架空の話である)。

男はギターをポロポロと弾いている。そして彼女に贈るための歌を練習している。男の家に彼女がやってくる。男は一旦ギターを隠す。二人は一緒に夕飯のハヤシライスを食べる。ハヤシライスは彼女の好物だ。夕飯を食べ終わって落ち着いたところで、男はおもむろにギターを弾き出す。彼女は思いがけない出来事に吹き出す。男は彼女への歌を贈る。それはプロポーズの歌だった。彼女は思わず泣き出して、イエスと答える。二人はその夜、つたないデュエットを歌った。

先ほどに比べると、だいぶ物語らしくなったのではないだろうか。結婚式のムービーにするくらいであれば、上々なお話である。

しかし、これがドラマや映画として考えるとまだ物足りないだろう。素敵な話ではあるけれど、想定通りに進んでいるばかりで、「主人公に何かが起きている」感じがしないからだ。

主人公に何かが起こること――これが即興で物語を作るときの次のコツである。

主人公に何かを起こしてみると

では先ほどの話からスタートして、主人公に何かを起こしてみたらどうなるだろうか?するとこんな感じになる(もちろん架空の話である)。

男はギターをポロポロと弾いている。そして彼女に贈るための歌を練習している。男の家に彼女がやってくる。男は一旦ギターを隠す。二人は一緒に夕飯のハヤシライスを食べる。ハヤシライスは彼女の好物だ。夕飯を食べ終わって落ち着いたところで、彼女がおもむろに話し始める。「今まで黙っていたけれど、私はヤクザの組長の娘なの」「親が決めた相手と結婚しなければいけなくなった」「だからもうあなたとは会えない」と。男は驚きのあまり言葉を失う。二人の間に気まずい沈黙が流れる。沈黙を破ったのは、男はギターだった。男は彼女への歌を贈る。それはプロポーズの歌だった。彼女は思わず泣き出して、「あなたと結婚したい」と答える。二人はその夜、駆け落ちするのであった。

こうするともう「物語」という感じがするのではないだろうか。ここから続けて、もっと長い物語にすることもできる。

どうやって何かを起こすのか?

ストーリーテリングを教えていると、この「何かを起こす」ことに難しさを感じる人が多い。

おそらくそういう人は先のことを考えすぎている。「後でこうしたいから、今ここでこうしよう」と考えると即興ではうまくいかない。

必要なのは、ただ日常を壊すことである。キース・ジョンストンはこのことを「Breaking the Routine」と呼んでいる。

そしてその理由はあとで考えればいい(それは勇気が必要なことだが)。たとえば上の物語は次のように何かを起こすこともできる。

夕飯を食べ終わって落ち着いたところで、彼女が泣き始めた。彼女は言った。「実は、あと半年の命なの」

夕飯を食べ終わって落ち着いたところで、彼女が突然男を殴った。彼女は言った。「この前、知らない女と歩いているのを見た」

夕飯を食べ終わって落ち着いたところで、彼女が震えはじめた。彼女は言った。「あなたに、女の悪霊が取り憑いてる」

といった具合だ。いずれの例も、僕は日常を壊した時点ではその理由は分からなかった。「彼女は言った」とタイプしているうちに、その理由が思いついたという感じである。

とはいえ、最初のうちはこのようなアイデアはなかなか出てこないだろう。何かを起こすことは非日常を描くことだから、そのためには発想の訓練も必要になる。

物語はどうやって終わらせるのか?

即興で物語を始めるのは簡単である。何かを起こすこともできたとしよう。しかし、終わらせられない人が多い。

即興で物語を作っているのだから、究極的には「終わり」と言えば物語は終わりである。しかしその勇気を持てる人は少ない。

また、「終わりたいから終わり」というのはオーディエンスに対して少し不親切でもある。なのでここでは物語を終わらせるためのテクニックについて少し紹介しよう。

変化で終わらせる

短い物語を作るのであれば、変化したところで終わらせてしまってもいい。例えば

夕飯を食べ終わって落ち着いたところで、彼女が震えはじめた。彼女は言った。「あなたに、女の悪霊が取り憑いてる」

という話も、ここで終わらせてしまってもいい。あとはお客さんが想像する、というスタイルだ。即興で物語を作る場合はお客さんも一緒に想像しているので、スパッと終わらせたほうが印象的になったりする。

問題が解決したら終わり/破滅しても終わり

次の終わらせ方は、起きた問題を解決するか(ハッピーエンディング)、解決できず破滅する(バッドエンディング)、である。例えば上の例なら、悪霊を退散できたら終わりだし、反対に悪霊に殺されても終わりになる。

ドラマや映画などでは、解決や破滅までに多くの時間をかけ、そして終わらせるというパターンが多い。ただし即興で物語を作る場合はそうすると複雑・冗長になりやすいので、もっとスパッと解決したり破滅したりすることが多い。

再統合する(Reincorporation)

これは物語で既に出たもの(特に最初に出たもの)を再度出すことによって終わらせる、という方法である。キース・ジョンストンはこれを「Reincorporation」と呼んでいる。

なぜそれで物語が終わるのかと思うかもしれないが、実際にやってみると終わった「感じ」がする。例えば上の例なら、悪霊に対して男がギターで歌ったら終わった「感じ」がするだろう(文字だけだとあまりピンと来ないかもしないが、実際に見るとそう感じる)。

人間は「行って帰ってくる」物語を子供の頃からたくさん見聞きしている(桃太郎からロード・オブ・ザ・リングまで)。それはもうDNAに刻まれているレベルかもしれない。だから最初に出てきたものをもう一度出すと終わった「感じ」がするのである。

この方法はドラマや映画などでも使われるし、即興でも使える。特に即興では終わりが見つからないときに「さっと終わらせる」ために使うことができて、便利な方法である。

それは恐怖について学ぶことでもある

さて、ここまでは即興で物語を作るテクニックについて書いてきた。しかし、即興で物語を作ることは恐怖について学ぶことでもあるのが面白いところだ。

キース・ジョンストンは人間には次のような恐れがあると言っている。
1. 未知への恐れ
2. 変化への恐れ
3. 評価への恐れ

そしてこれらは、
1. 物事につながりをつけること
2. 主人公に何かを起こすこと
3. 終わらせること
と密接に結びついている。

人間は本能的に、物事をつなげると物語が進んでいくことを知っている。(最初の例のように、物事をつなげないと物語に感じないのは、そのことを本能的に知っているからだ。)そして物語が進んでいくということは未知へと進んでいくことである。

そして未知を恐れる大人は即興で物語を作ろうとしても、つながりのないアイデアばかりを出してしまう。反対に、未知を恐れない(むしろ好奇心を持って進んでいく)小さな子供のほうがつながりのあるアイデアを出せるくらいだ。

また、主人公に何かを起こすことは変化への恐れと結びついている。人は主人公に共感するから、主人公に何かを起こすことは自分に何かが起こることに感じられる。

だから変化を恐れる人は主人公に何かを起こせなかったり、起こしてもすぐに解決してしまう。銃を向けられてもなかなか撃たれなかったり、撃たれても外れたりする。これは嘘のようにほとんどの人に起こる現象だ(これに関しては子供もそう)。

そして、終わらせることは評価への恐れと結びついている。物語を終わらせることは評価を確定させるということである。だから評価を恐れる人は物語を終わらせることができない。そして「もっと良くできるのではないか」と必死に(そして悲惨に)もがいてしまう。

キース・ジョンストンはうまくいっていない話はさっさと終わらせて、新しい話を始めたらいいと言う。それは至って当たり前のことだが、「ベストを尽くすこと」を教育されてきた大人にとっては難しいことだったりする。

と、ここまで恐怖について書いてきたが、実際の学びの過程はそんなに恐ろしいものではない。むしろ楽しんでいる中に「あ、でもこれは恐れていたな」と気づいて手放していくようなものである。「即興で物語を作ることは、恐怖について学ぶことでもある」が、それは言い換えれば「即興で物語を作ることによって、恐怖に気づいて手放していく」過程でもあるのだ。

即興で物語を作ることを探究する理由

ここまで即興で物語を作ることについて書いてきたが、ぶっちゃけて言えば、脚本を書いたほうがクオリティーの高い物語を作ることはできる(脚本を書くことは、いい即興を残していくようなことでもあるから)。

しかし、恐れのない人が即興で物語を語っている様子はそれだけで気持ちのいいものだし、美しいものである。それはまるで小さな子供が自然に歌ったり踊ったりしているような気持ちよさであり、美しさである。

僕はそれが面白いと思って未だに即興で物語を作ることを探究している。そしてもちろん、自分の恐怖を取り除くことについても。

それはピカソが子供の絵を探究したことと似ているかもしれない。ただし、それは単に子供に戻ることではない。大人にはこれまで積み重ねてきた経験や言葉があるから、子供と同じように自由になれば、子供よりもずっと豊かな物語を紡ぐことができるだろう。

その可能性を楽しみにし、その過程を楽しむ。即興を探究することは、そんな旅だと思っている。

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