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心理的安全性に対する誤解~馴れ合い・ぬるま湯・性格の問題~

昨今、「心理的安全性」という言葉が急速に広がっていると感じる。実際、Googleの検索数を見ても「心理的安全性」というキーワードの検索数は明らかに増えている(最初の要因はGoogleによる研究成果、次の要因は『心理的安全性ののつくりかた』によるものだろう)。

心理的安全性-調べる-Google-トレンド

僕は心理的安全性という概念はチームの本質をついたものだと思っているので、その言葉が広がることは好ましいことだと思っている。一方で、心理的安全性に対する誤解も増えていると感じる。それは「心理的安全性は馴れ合い」「心理的安全性はぬるま湯」といったものだ。たしかに「心理的安全性」という言葉でそのような意味を思い浮かべるのは分からないでもない。

このような現象は日本に限らず、海外でもあるようだ。心理的安全性は英語では「psychological safety」と言うが、これもそのような誤解を招きかねない表現である。心理的安全性研究の第一人者であるエイミー・C・エドモンドソン氏もこの問題については認識していて、『恐れのない組織』では「心理的安全性についての誤解」という節を用意して、心理的安全性に対する誤解を解こうとしている。この記事ではその内容を紹介しながら、心理的安全性に対する誤解を解いていこうと思う。

心理的安全性は、感じよく振る舞うこととは関係がない

心理的に安全な環境で仕事をすることは、感じよくあるために、誰もがいつも相手の意見に賛成することではない。あなたが言いたいと思うあらゆることに対して、明らかな称賛や無条件の支持を得られるわけでもない。むしろ、その正反対だと言ってもいい。心理的安全性は、率直であるということであり、建設的に反対したり気兼ねなく考えを交換し合ったりできるということなのだ。

エドモンドソン氏が一番最初に解こうとしている誤解は、「心理的安全性は馴れ合い」についてである。「心理的安全性」という言葉を聞くと、暖かい空間で、何を言っても受け入れられる、というイメージがあるかもしれない。しかしこれはエドモンドソン氏が考えている心理的安全性ではない。これについては、エドモンドソン氏による心理的安全性の定義を見ると分かりやすいだろう。

"A shared belief held by members of a team that the team is safe for interpersonal risk taking."
「このチームでは対人関係のリスクをとっても安心であるという、チームメンバーに共有された信念」

心理的安全性とは「ただの安心」ではなく、「対人関係のリスクをとっても安心」と思えることである。対人関係のリスクについてはまた別の記事で書くが、それは例えば「自分のミスを認める」「他者の意見に疑問を呈する」といったものである。これらは「ただの安心」よりもよりリスキーなものである。しかし、だからといって殺伐とすることでもない。このように自分の弱さを認めたり、率直なフィードバックをしたとしても安心と感じられること。それが心理的安全性の意味するところである。

具体的な場面としては、Pixarのブレイントラストを例にあげると分かりやすいだろう。Pixarのブレイントラストは、制作中の映画を良くするために行われる率直な意見交換の場である。ブレイントラストでは、社内のクリエイターたちが制作中の映画を見て率直に意見を出していく。

これはいわゆる安心な場ではない。むしろ、これらのフィードバックに傷つくこともあるだろう。実際、Pixarも率直なフィードバックは痛みを伴うことを認識していて、そのために社内でインプロのワークショップを行っているくらいである。しかし、そこには「このチームでは率直な意見を言っても/言われても安心である」という信念がある。このような場が心理的安全な場であり、それは馴れ合いからは程遠く、プロフェッショナルな場であると言ってもいいだろう。

心理的安全性は、性格の問題ではない

心理的安全性は外向性と同義だと説明する人がいる。その人は、このように考えているのかもしれない。職場で考えを言わないのは、性格が内気か自信がない、あるいは単に人付き合いが嫌いだからだ、と。だが、研究によれば、職場で心理的に安全だと感じられるかどうかは、内向性や外向性ととは無関係だと言う。

先程「率直な意見」について書いたが、率直な意見は外交的な人が言い、内向的な人は言わない、というわけではない。これについてはプログラマー同士のコミュニケーションを例にあげると分かりやすいだろう。

プログラマーの多くは内向的な人であり、それほどおしゃべりな人たちではない(自分の好きなことに対しては饒舌になったりするが)。では率直な意見が言えないかというと、実際は率直な意見を言える/受け入れられるチームが多いと感じる。これは対象がプログラミングコードという分かりやすいものだからという理由もあるが、プログラマーの文化として「コードはみんなのもの」「フィードバックを出して良くしていく」という文化があるからだろう。これの究極的な形がオープンソースソフトウェアであり、そこではかなり率直な意見交換がされている(反対に、率直な意見交換がされないオープンソースソフトウェアは廃れていく)。

僕自身に関して言っても、僕は内気であり、さらにドライな性格でもある。しかし、僕のワークショップの特徴は「心理的安全性が高いこと」だと言われる。心理的安全性が高いか低いかは、そこにいる人たちの性格ではなく、行動や文化によって決まるものなのである。

心理的安全性は、信頼の別名ではない

信頼と心理的安全性には多くの共通点があるが、その概念を置き換えることはできない。最大の違いは、心理的安全性がグループレベルで経験される点だ。職場環境が心理的に安全かどうかについて、ともに仕事をする人々は似た印象を持つ傾向があるのだ。

これについては少し理解が難しい。僕も確実に理解できているかは怪しい。先程「心理的安全性が高いか低いかは、そこにいる人たちの性格ではなく、行動や文化によって決まる」と書いたが、例えばランチタイムにはなんでも話せる二人でも、会議では何も話せなくなってしまうこともあるだろう。反対に、全く知らない人同士でも、哲学対話の場ではかなり率直に話せたりする。こういう例を考えるといいかもしれない。

心理的安全性は、目標達成基準を下げることではない

心理的安全性とは、高い基準も納期も守る必要のない「勝手気ままな」環境のことではない。職場で「気楽に過ごす」という意味では、決してないのだ。このことは肝に銘じておいたほうがいい。

エドモンドソン氏が心理的安全性に対するよくある誤解として最後にあげているのは、いわゆる「心理的安全性はぬるま湯」についてである。「このことは肝に銘じておいたほうがいい」とまで書くとは、相当誤解されてきたのだろうと思う(そしてその苦労が偲ばれる)。エドモンドソン氏は心理的安全性と業績基準は別の軸であると捉えており、「心理的安全性と業績基準の関連性」として、次の表をあげている。

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そして、学習および高パフォーマンス・ゾーンを目指すべきだと述べている。同時に、最も懸念するのは不安ゾーンであるとも述べている。

私が最も懸念するのは、快適ゾーンでも無気力ゾーンでもない。夜も眠れないほど私が心配に思うのは、右下のゾーンである。業績基準は高いが、心理的安全性が低いとき――今日、きわめて多くの職場で見られる状況だ――、従業員は考えを言うことにビクビクし、仕事の質と職場の安全性の両方に害が出てしまうのだ。

業績基準が低く、心理的安全性も低い場はあまりない(潰れてしまうから)。また、心理的安全性は高いが、業績基準が低い職場もあまりない(やはり潰れてしまうから)。しかし、業績基準は高く、心理的安全性が低い場はたくさんある。むしろそれがマジョリティーと言っていいかもしれない。『恐れのない組織』では、このような組織でどのような問題が起きるかについて詳細に書かれている(とてもいい本なので、ぜひ読んでみてほしい)。そして、学習および高パフォーマンス・ゾーンでは次のようなことが起きると書いている。

業績基準も心理的安全性も高い場合を、私は「学習ゾーン」と呼ぶ。仕事が不確実だったり相互依存的だったり、もしくはその両方である場合は、「高パフォーマンス・ゾーン」にもなる。そういう職場では、人々は協力し、互いから学び、複雑で革新的な仕事をやり遂げることができる。VUCAの世界では、人々が積極的に学習しながら前進する場合に、高パフォーマンスをあげられるのである。

これは人によっては夢物語のように感じられるかもしれない。しかし僕の経験からすれば、このような場は確実に存在する。ただし、簡単に存在するわけではない。そこにいる人たち全員が責任を持って関わることで生み出すことができる、プロフェッショナルな場である。

現代はプロフェッショナルに求められるものが多面的になっている時代だと感じる。安定した時代では自分の仕事(業績基準)を達成できればよかったが、VUCA=先の見えない時代ではチームの仕事(心理的安全性)も必要になっている。しかしそれは感じよく振る舞うこと(馴れ合い)や外交的であること(性格)ではない。誰もがリーダーシップを発揮して、チームに貢献することである。では、どうすればそんな貢献をすることができるのだろうか?それは次の記事で書こうと思う。

書きました心理的安全性を高めるリーダーシップとは?

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