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過去が頑固化を加速させる

けっこう長いこと「思い込みが強い」ということがどういうことかわからなかった。
「あの子、思い込み強いよねー」などと言われて同意をせまられても、適当に流していた。
思い込みが強いってどういうこと?

ここ数年でそれがどういうことなのかようやくわかってきた。思い切って言ってしまえば、思い込みが強いとは頑固であることの現れだ。
自分の考えに凝り固まっているから、これはこうだと決めつけてしまう。
他人は「ちょっと違うんじゃ……?」と思うのだが、本人は「いんや、そうなのよ!」と決めてかかっている。それで「あのひとは思い込みが強い」と言われるはめになる。

でも他人のことを思い込みが強いと言っているひとだって、同じように思い込みが強いからそう思うんじゃないだろうか。思い込みが強いから、相手の考えを「それもありかもしれない」とは思わないで、相手のことを思い込みの強いひとにしたて上げているのだと思う。


歳をとると頑固になるっていうのはあながち嘘ではない。わたし自身もそのことはものすごく実感している。
でも若いひとであっても、頑固な部分は多かれ少なかれみんなもっているはずだ。頑固な部分がまったくなければ、他人やできごとに振り回されてばかりの、へにゃへにゃのひょこひょこになってしまう。
だから歳をとって頑固になるというよりも、年齢とともに頑固の領域が広がるということなんじゃないだろうか。

その頑固エリアを拡大させるのは、経験や知識の類だと思う。過去にもとづいて生きていると言ってもいいのかもしれない。
自分の体験してきたことに照らし合わせてしか、ものごとを考えられなくなる。こういうことがあってこういうふうにしたら成功(失敗)したから、これは絶対にこうしなければならないという考えかたしかできなくなったら、頑固エリアが拡大した証拠。

わたしの場合は、仕事で因果律に基づく考えかたばっかりしていたら、頑固領域がものすごく拡大していた。
(当たり前だけど)辻褄が合っていない資料をつくるわけにはいかないし、突っ込まれたときの防衛策も考えておかなければいけない。
何か意見を言うときだって、相手が納得できる説得力のある理由がなければならなかった。「こうだから、こう」という考え方しかなかった。

そういうことばかりやっていたら、根拠のない考えや曖昧なことを受け入れられなくなった。直感による成功体験がないから、「こうだから、こう」の考え方を片時も手放せない。
説明のつかないことを言うひとの話を聞けば「それはただの思い込みなんじゃない?」などと攻め立てるヤなおばさんになってしまった。

日常的にも、自分のもつ「こうだからこう」という基準に合っていないだけで、「あのひと思い込みが強いわよね〜」などと言い放っているにすぎない会話は、そこらじゅうにごろごろある。
頑固領域が狭ければ、相手の言うことを「そういうふうに思うんだ」というふうにとらえられる(頑固領域が狭すぎるへにゃひょこ人間だと、何の吟味もなしにそれに同調してしまう傾向があるから、「そう思うんだー」の次に自分はどうするのかっていうのはまた別の問題として考えたい。子どもに対しての言動は気をつけないといけないというのはこういうことなのかも)。
頑固領域が広くなりすぎると、自分の基準に合わない話を理解しようとしない。というよりも、もはや理解できなくなってしまうのだと思う。
それは老化というのであれば、ちょっと恐ろしい。

過去の自分を自画自賛するようだけど、「思い込みが強い」が何のことかわからなかった自分って、けっこう素直だったのね。

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