トレードオフなんてないのだ
最近、やってることの質はともかく、時間の面で忙しくて肉体的に疲弊している。でも、忙しくてあれもできない、これもできないとイライラすることが少なくなった(締切間近のことが迫っていると、ちょっと焦ることはあるけど)。少しだけど、清々しさすらある。
その清々しさは、忙しさを自分以外のなにかのせいにしていないからだと思う。
なにがきっかけでそうなったのかはわからないのだけど、すべては自分で選んでいるのだから、これのためにあれを捨てたり諦めたりしなきゃいけないというふうには思わなくなった。
サラリーマン生活を辞めて2年半ほどたった。
年収はがた落ちしたけど、とくに不満もない。その年収なりの生活をすればいいだけで、やってみりゃなんとかなるものだ。
だけど、我慢しながら今の生活をしているわけではない。自分はこういう生き方をしたいから、こういうことを選択したのだということに納得している感じがある。
自分で選んだんだから自分で責任持ちなよってことを言いたいのではない。自分の「あり方」が、納得して生きていくかどうかの問題なんだと思う。
わたしが以前、なにかと他のことやひとのせいにしていたのは、自分のあり方が定まっていなかったからだ。
こんな自己肯定感の低い人間になったのは親のせいじゃ! という妄想力抜群のことから、むっちゃ忙しいのにこんなどうでもいいことをやってるのは、あいつがこれをできないからじゃ! という現実的なことまで。
俳優とか芸人とかアーティストとかを目指していて、まだ芽が出ていないときは貧乏生活していたって話は昔から美談の鉄板だけど、それでも彼らは貧乏が苦じゃなかったと思う。
夢のトレードオフが貧乏なんじゃなくて、彼らはそうしたかったからそうしたまでなのだと思う。
もちろん好き好んで貧乏していたということではないし、ほかの方法もあったかもしれないけど、彼らは夢への一環として貧乏を楽しんでたんじゃないかと思う。赤い手拭いマフラーにして横丁の風呂屋から帰るのもそれまた楽し、みたいな感覚(違う?)。
犠牲になっている自分に酔いつつ、不平不満を抱く。
他人の分まで仕事を押し付けられてやりたい仕事ができない、人間関係を壊したくないから苦手なひとたちと距離を取れない……いろんなことが日々起こる。
自分が犠牲になっていると思うのは、自分をねじ曲げているからにほかならない。
もしかしたら、ほんとうはひとの分まで仕事をしたいのかもしれない。ぽつんと一人になりたくない思いがあるかもしれない。その逆かもしれない。
どんなことであれ、なにかしらの願望が自分にあるからこそ、表面上は不本意に思っているその行動をとっているはずであって、決して犠牲や諦めなんかじゃない。
相手(ひとや組織や雰囲気)に合わせるんじゃなくて、自分のあり方をちゃんとわかるように見せておく。その上で、現実的にきちんと対応していくやり方を考えないといけないと思う。
ほんとうにやりたい仕事があったら、「自分の仕事はこうである」と立ち位置を提示する(そうするための諸々の調整は必要だけど)。
苦手なひとたちと一緒にいたくない、その代わり嫌われてもしょうがない。ではなくて、一緒にいなくても問題がないかかわり方をする。良い人間関係をつくろうとして相手に合わせちゃいけない。
「わたしはあなたたちのことを嫌っているのではなく、これこれこういうスタンスでひとと関わる人間なのだ」ということを明確にする。そのために、例えば、必ずあいさつだけは笑顔で交わすとか。良い人間関係をつくろうとするんじゃなくて、人間関係に問題を発生させないってことから考えるといいのかも。
わたしも大きなところでは清々しくても、細かいところではまだまだ自分をねじ曲げてしまいがちだ。相手をハッピーにするために自分がアンハッピーになってしまうような。
自分がアンハッピーであることを望んでいるんだったらいいけど、そんなマゾではない。だったら、自分はこれこれこうである、ということをもっと提示できるようにしないとな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?