生きづらさはだれのせい?
今日のBGM:
「自分はマイノリティだと思う」とか、「わたし、アスペルガーだと思うわぁ」などと言うひとが最近多いような気がする。
そうだよなあ、わたしもそう思いたい。
でもわたしは平凡な凡人。って日本語おかしいか。
マイノリティだの自閉症だのというひとが多い割には、みんな結構まともに見えるじゃないですか。
変な格好もしていないし、っつーかおしゃれだし、エレキテル連合みたいな化粧もしてないし、理解不能な言動もしないし、空気読めないってこともないし、Facebookで自撮りを投稿してるし、キラキラしてるし。
ちょっと上から目線、かついじわる目線で書くことを許してほしいのだけど、「わたしって、ちょっと普通よりヘンなのぉ」などと言うひとは「生きづらい」ってことをアピールしたいように見える。
それじゃあ「生きづらさ」って何なんだろうって考えてみるに、ものごとが自分の思うとおりにならないということに行き着いた。
「思うとおりにならないからってすぐにむくれるんじゃないっ!」
子供のころ、こんなふうに親からよく怒られた。今でもすぐに不機嫌になる癖は直っていない。
思うとおりにいかない原因っていうのはいろいろあるのだろうけど、みんなの考えかたが違うからなんだろう。当たり前か。
でも、ひとはその当たり前を忘れてしまうから、思うとおりにならないことに対して、イライラしたりメソメソしたりといった、あまりうれしくない感情が出てきてしまうのだ。
そうしてその感情を、マイノリティだのアスペルガーだの発達障害だのADHDだの、そんな諸々のせいにして、自分を特別扱いして慰めるのだ。
要するに(また上から目線で)、自分で自分にラベルを貼って楽しんでいるのだ。
生きづらいと感じているくせに、生きやすくしようとも思わずに、ラベルを貼ってしくしく泣いているけれど、心は微妙に喜んでいるんじゃなかろうか。
なんちゃって。
かく言うわたしもラベル貼りは得意だ。わたしの場合は、自分にではなくて、他人に対してラベルを貼りまくる方。
最近はあまりないかもしれないけれど、昔はスーパーなどの店頭で、商品にかっちゃかっちゃと店員さんが値札のシールを貼っているのをよく見かけた。
こういう機器ですね↓↓。
出典:サトー
あんな感じで、わたしも他人に対して「このひとは浅はか」とか「こいつは礼儀知らず」などといったラベルをかっちゃかっちゃと貼っている。
これって「わたしって、ちょっと普通よりヘンなのぉ」とか言うひとよりもたちが悪い。
つい先だっても、気がついたらやっていた。
ちょっと感じの悪い(ように見えた)おじさんと同じ空間にいる機会があり、彼に「老害」「エラソー」というラベルをせっせと貼っていたのだ。
かっちゃかっちゃかっちゃ。
こんなことをしても何もいいことはない。
ラベルを貼ったからといって、わたしの気分がよくなり、そのおじさんに対して「良き態度」で接することができるかというと、そうでもない。そんなわけないのだ。
わたしはますます不機嫌になり、それが態度ににじみ出るものだから、相手も気分が悪くなる。
「ちょっと感じの悪いおじさん」が「ものすごく感じの悪いおじさん」に変貌してしまう。
わたしはおじさんと離れても、その後12時間くらいの間は、ふっとおじさんといた時間を思い出しては、「ったくえらそーに」などと心のなかで悪態をつき、10%引きや30%引きの値引きシールを貼るように、上乗せしていって、とうとう90%引きになった。
その結果、わたしのなかでそのおじさんは、「感じが悪い」どころか「極悪人」に変貌してしまった。妄想って恐ろしい。
わたしは、そのおじさんがわたしの思うとおりの言動をしないことに不満だったのだ。
自分勝手な行動を控えさせたかったし、相手によって態度を変えてほしくなかったし、わたしがしてあげたことに対してお礼を言わせたかったのだ。
そんな思うとおりにならないことが積み重なると「生きづらく」思えるのかもしれない。自分がイライラしていたら、この世の中に生きていても楽しくない=生きづらい。
でも、ほんとうに相手を自分の思うとおりにしたかったら、そうならない相手に不満を覚えてラベルをぺたぺた貼るのではなく、思うとおりになるように仕向けたほうがいい。
今回の場合は、相手の感じが悪いこと、とりわけ偉そうな態度が気に入らなかった。
であれば、自然と相手が笑顔になるようにわたしが仕向ければよかったのだ。
たとえば、こちらがニコニコして接すればよかったのかもしれない。このことは、相手におもねることになるのかもしれないし、確かにそういう側面もあることは否めない。
でも、ニコニコしていれば自分自身だって気分がいいのだ。
イライラ→ニコニコへの切り替えは、不機嫌がデフォルトのわたしのような人間にはけっこう難しい。
でも、イライラしている時間がもったいないじゃないか。イライラは後の数時間まで引きずる。そんな暇があったら、もっと有益なことに頭を使いたい。コンテンツのネタに頭を使うとか。
いいひとになれるに越したことはないし、なってみたいような気もするが、べつにいいひとになることが目的じゃない。
相手にどう思われるかは関係ない。自分が機嫌よくいたいのか、それとも不機嫌でいたいのかを自分で選ばないといけない。
自分はどこに行きたいのか? どう生きたいのか? 思うとおりにならないことに心をとらわれている暇があるのか? と常に自分に問いかけなければならない。
でも、その問いかけを忘れてしまう。
忘れないように、思い出すきっかけになるような物を決めたこともあるけれど、それを取り出せるくらいなら、その物がなくたって問いかけは忘れない。
だから忘れてもいいことにした。いきなりゼロにしようとすると絶対にできないし、できないことでくじける。だから、イライラと同化してしまってもいいことにした。
ただし、そうなってしまった自分を後で思い出して、手帳に書き留めておくことにした。
これは忘れてはダメだ。繰り返し繰り返しやるのだ。
スポーツ選手も、歌手も、受験生も、小説家も、みんな繰り返しやってるから、その道のプロになれるんだと思う。
わたしはご機嫌のプロになる。
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