自信と肩書
去年予告されたときから必ず行こうとマークしていた映画を観た。少年院から出たばかりの男性が、ひょんなことからある村でニセ司祭として立ち振る舞うことになったというお話。
このニセ司祭は、最初はおそるおそる説教していたんだけど、信者が疑いもせずに自分の話を聞いてくれるのがわかると、だんだんと自信をもつようになる。
ひとを前にして自分が気持ちよくなっちゃうことってあると思う。複数のひとの前で勇気を出して自己開示したり、言いにくい話題について問題提起したりして、それ自体はいいことなんだけど、反応が好ましかったりすると妙な自信をもってしまって、とめどなくエスカレートしちゃうことがある。
気持ちよくなっちゃうときって、チョロいって思っていることと関係があるような気がする。
たとえばプレゼンなどひとの前で話をするとき、初めは緊張する。その理由は突っ込まれたりダメ出しされるんじゃないかという恐怖。だけど、こんな程度のプレゼンでもふんふんとうなずいて内容的にも納得してもらえるという経験を積み重ねると、チョロくなってしまい、プレゼンが気持ちよくなってしまう。
書類一つとっても、こんなんじゃ突っ返されるかなとかおっかなびっくり出す。すると意外にも「よくできてる」というリアクションがあったりして、またまたチョロいと思ってしまう。こうやって世の中チョロいことが増えていく。
……といい気になっていると、定期的にしっぺ返しが来るので人生はうまいこと新陳代謝するようになっている。
さて、それに加えてこのニセ司祭が、最後まで信者からは疑われることがなかったのは、聖職者という彼の(偽の)肩書もあったんだろうと思う。
わたしたちだって、葬儀をお寺さんに頼んでおいて、こいつほんとにお坊さんかな? とか思わないもんね。最初から信頼されるという肩書マジック。
肩書ってものはある程度は必要だとは思う。だれが社長なのか決めてなかったら、最終的な決定権も責任の所在もわからなくなってしまう。
このニセ司祭も司祭という肩書だったからこそ信者たちは耳を傾け、彼に救われたと感じている。そうじゃないひとが同じことをやっても同じ効果があるとは限らない。
疑うような要素がだんだんと増えていけば懐疑の目も増えていっただろうけど、その肩書と自信が相まって司祭っぽさが増長されたから、最後までだれも疑わないという結果になったんじゃないかと思う。
彼自身も、ワルの部分も残りつつ、内面的にだんだんと聖職者っぽくなっていくところがおもしろい。
この話のなかに、証拠がはっきりないまま多数者から一方的に悪者にされてしまうひとがいる。彼はそのひとのために信者から集めたお金を使う。自分の嘘がピンチになり、それを守るためにそのお金を着服できる状況であったにもかかわらず。
そもそもそのお金を悪者とされているひとに使うことにも反対意見があったのだけど、諸々含めて彼は公正のためにお金を使いたいと思ったんじゃないかな。
でも、彼が聖職者になるに値する人格をもてたとしても、犯罪歴のある者は神学校には入れないらしいので、一生本物の司祭にはなれない。前科者という肩書が選択肢を狭くする。
肩書は自分を助け、周りを助けることもあるけれど、場合によっては自分の選択肢を狭め、周囲もその肩書に結びついたさまざまな価値観に基づいてそのひとを見る。
先入観なしにフラットにだれかを見るということは難しい。肩書だけじゃなくて、性別、職業、学歴、出身地その他諸々によって十把一絡げに決めつけてしまう。その方が頭が楽なんだろうと思う。
勝手にレッテル貼ろうとしている自分に都度都度気づくことでしか、回避できないのかしら……。
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