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よもやま語らいゼミ開催後記②「なぜ無意識に自分を演じてしまうのか」

「よもやま語らいゼミ」とは何か?
 東大生を対象に、あるテーマについて自由に話し合うイベントです。10月7日開催の今回は「なぜ無意識に自分を演じてしまうのか」がテーマでした。

 十人ほどが参加し、様々な話が展開されました。どういう展開がなされたかというと、おおむね下の図のように広がりました。

20211007よゼミコグル

 この図を見ると、大きく5つの話題があったことがわかります。つまり上から反時計回りに、
(緑、紫)実際の人間関係で自分を演じているか?それとも素で接しているか?
(黄)素の自分とは?
(赤)一貫性のある自分に憧れるか?
(青)演じることは悪いことか?
(橙)SNSではどう自分を演じているか?
となっています。これらを参考に、話し合ったこと、それを受けて自分で考えたことを色々と書いていきます。

1.実際の人間関係における振る舞いかた
 突然ですが、皆さんはどうやって中学・高校生活での人間関係を乗り越えてきましたでしょうか。
 私はいわゆる中高一貫の進学校ではなかったこともあってか、だいぶ苦労した記憶があります。良く言えば色々な人がいる、悪く言えば治安の悪い学校生活でした。よゼミでは、自分を演じて周りに溶け込んで過ごしてきた、という経験談がありました。その一方で私は、「素の自分をぶつける」という態度を多くの場合に選択していたと、今振り返って思います。当然衝突があります。その相手は、一番の得意科目が体育であるような人たちだったり、学校という聖域の審判員であるはずの先生だったりしました。この記事を読んでいるあなたにももしかしたら心当たりがあるかもしれませんね。

 一方、大学に入ってからはどうでしょうか。
 よゼミでは、大学に入ったことで自分の属性にこだわることが増えたという話がありました。私の経験では、自分と似ている人が多いからか、周りと打ち解けるのにさほど苦労はしませんでしたが、中高の友達とは何かが違うように思いました。
 「本当はこの話題を振りたいが、コイツはこの話題を嫌ってそうだから別のものにしよう」などと気を遣う回数が多いのです。また、喧嘩をしたことがないのです。LINEを交換した人数は大学に入ってからの方が何倍も多いのですが、中高時代から付き合っている友達と同じ感覚で話せる人は、だいぶ少なくなってしまいます。

 素の自分で作った人間関係と自分を演じてできた人間関係、それぞれの良し悪しは何でしょうか。前者の良いところはなんと言っても話せる内容の幅が広いことでしょう。ですが、それ故に感情でコミュニケーションを行うことが多く、時間をかけて建設的な議論をするといったことはあまりありません。そういった話は後者のような「大人の」関係の方がやりやすいでしょう。ですが、その関係において心から大笑いすることはできないかもしれません。

2.素の自分
 素の自分とは何でしょうか?そもそもそんなものはあるのでしょうか。
 素の自分なるものがあるのなら、素でない自分というものもあるはずです。こちらの方が簡単に見つかるので、しばらくこちらについて考えます。

 よゼミ中では、素でない自分が二種類に分けられるという指摘がありました。一つは対人関係と結びついているもの、もう一つは属性(アイデンティティ)に縛られているものです。
 対人関係と結びついているものとは、人によって接し方が変わるときに現れるその違いです。わかりやすいのは目上・目下の違いでしょう。特に日本語では言葉遣いに顕著に表れますが、その他にも目線や声色などが無意識に変わっています。
 属性に縛られているものとは、「東大生らしく」振る舞うといったものです。「東大生らしくなく」振る舞おうとしても、それもまた自分を演じていることになります。

 「これが本当の自分だ!」と考えているものは「素の自分」でしょうか。あなたの頭に浮かんできたものは、もしかしたら素の自分ではないかもしれません。「本当の」素の自分はその幾層も内側にあるのかもしれません。

3.一貫性のある自分
 「一貫性」は好ましいものとして扱われることが多いそうです。つまり、あっちとこっちで言っていることが違ってはいけないと。
 では、みんなに敬語を使わなければいけないのでしょうか?望ましい一貫したあり方とは何でしょうか?
 よゼミでは、望ましい一貫性とは表面上の言葉遣いの一致などではなく、その奥底にある相手への尊重である、という考え方が出てきました。目上や目下といった関係を乗り越え対等な人間として相手を想う、仏教用語でいう「慈悲」のようなものに近づいていくのでしょうか。

4.演じることは悪いことか?
 「本当の」自分、「本当の」友達などと言うときには、「本当の」ものは「偽物の」ものより「良い」という価値判断が含まれています。
 同じように、演じることは「偽物の」ものである、だから「悪い」ものなのでしょうか?
 よゼミでは明確な答えが出ませんでした。
 私は実用主義的(プラグマティック)に考え、「演じることそれ自体は『悪』ではないが、演じることであなたが苦しんでいるのならば、『あなたにとって悪』」と結論しました。
 皆さんはどう思いますか。

5.SNS(主にTwitter) 
 私は長らくTwitter初めSNSの類から離れており、LINEもあまり使う方ではありません。
 使わないなりにゼミの話を聞いていると、そのうちに「人格のコピー」という言葉が降りてきました。アカウント一つにつき一つの「自分」がいるという考え方です。あるアカウントでの発言が不慮の事故で別のアカウントで作った知り合いに共有されたという話がなされました。そうなると、「あれ、どっちのアカウントが『私』なんだろう」と混乱したそうです。ドッペルゲンガーみたいですね。

ゼミに即した内容は以上です。

〜おわりに〜
 世の中には「自分探し」という言葉があり、ある種の人にとっては旅行の原動力になっているようです。
 それはそれで結構なことだと思います。
 では、「自分でないもの探し」はいかがでしょうか。「〇大生」「〇〇学部生」「〇〇歳」「〇〇職」「年収〇〇〇万円」……これらはいずれも自分の属性であって自分そのものではありません。自分を覆っている「自分でないもの」を取り払っていくと、長らく忘れていたものが見えてくるかもしれません。

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