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ゲーム研究を極める30冊〈3〉/吉田寛

(3)日本のゲーム研究・黎明期(2000年代)(3冊)

2000年代の日本では、学者や批評家が積極的にゲームを論じるようになり、より一般的な読者を対象として想定したゲームについての学術書が、書店の棚に並ぶようになる。しかし同時代の欧米ですでに始まっていた「ゲーム研究」との接続が本格的に試みられるようになるのは、まだ先のことであった。「日本デジタルゲーム学会」は2006年に設立されており、2007年には「デジタルゲーム学会」の国際大会も日本(東京)で開催されているが、そのことを反映した出版物はない。

(3-1)桝山寛『テレビゲーム文化論:インタラクティブ・メディアのゆくえ』(講談社現代新書、2001年)
デジタルゲーム文化を主題とする本書が、アクセスしやすい新書(講談社現代新書)の1冊として全国の書店に並んだことは、日本のゲーム研究にとって1つの画期的出来事であった。「インタラクティブ・メディア」という観点から、メディア史の大きな流れのなかにデジタルゲームの出現と発展を位置付けたことも本書の功績である。引用される参考文献には、最新のコンピュータや情報技術関連文献に混ざって、マクルーハンの『メディア論』やカイヨワの『遊びと人間』といった古典も見られ、ゲームに関心をもつ読者をさらなる探究へと誘う。だが同時に本書は、「過渡期」に書かれたという性格をもあわせもつ。本書を書いた時点で、著者の桝山は非営利団体「テレビゲーム・ミュージアム」の代表を務めており、ゲーム文化を歴史化する(歴史的収集や考察の対象とする)ことに意欲を燃やしていた。これはとりもなおさず、彼が「テレビゲームの最盛期はもはや過去のものとなった」と感じていたことを意味する。そしてこの感覚は、桝山だけでなく、当時の多くの人によって共有されていた。2000年から2001年にかけては、日本国内のゲーム市場がソフト総出荷額、市場規模ともに大幅に頭打ちになった時期で、「技術的進歩の飽和」や消費者の「ゲーム離れ」が指摘されていた。桝山はそれを踏まえて、ナップスター(音楽ファイル交換ソフト)、ヴァーチャル・リアリティ、「からくり」やオートマトンの現代版といえるAIBOといった最新の娯楽メディアやロボットのうちに「ポスト・テレビゲーム」の時代における「インタラクティブ・メディアのゆくえ」(これが本書の副題の意味だ)を見出そうとする。「遊び相手」を超えて「パートナー」になるロボットこそが、彼の考えるテレビゲームの究極的進化形である。こうした考えは、これ以降次第にゲームからメディアやメディアアート全般へと活動の軸足を移していく著者自身のキャリアとも響き合う。ミネルヴァのフクロウが象徴するように、「研究(知)が始まる」のは往々にして「何かが終わったとき」なのだ。
 
(3-2)八尋茂樹『テレビゲーム解釈論序説/アッサンブラージュ』(現代書館、2005年)
デジタルゲームを対象とする本格的な学術研究書は日本ではこれが初めてだろう(そしてその後も今に至るまで数えるほどしか出ていない)。著者は教育福祉学や児童文化論の専門家で、ひきこもり当事者の支援活動なども行ってきた。本書でも「子ども性」(筆者は否定的響きをもつ「幼児性」の代わりにこの語を用いる)を論じる章などで、ひきこもり体験者の調査事例が用いられている。本書を構成する章の多くは、著者が所属する学会や大学のジャーナルに掲載された論文の再録であり、そういう成立の経緯をもつ本も、日本のゲーム研究書では本書が初めてだろう。ゲームのローカライゼーションの過程から見えてくる日米の文化差、恋愛ゲームにおけるタブーとその侵犯、ゲームにおける「子ども」の描かれ方、ロールプレイングゲームの物語構造やレトリック、小説とサウンドノベルの比較、ゲームに描かれた「死」など、1人の著者がすべてを書いたとはにわかには信じられないくらい、そのテーマは多彩である。「テレビゲームは青少年に悪影響を及ぼすか否か」という乱暴な問題設定は、しばしば粗雑な「テレビゲーム・バッシング」や「テレビゲーム悪影響論」を生み出してしまう。それを避けるためには、問題設定をより精緻化し、「どのゲームのどの箇所がどのような影響をもちうるのか」を具体的内容に即して検証しなくてはならない。そうして「ゲームの深層/真相」に迫らなくてはならない。そうした思いが、著者をゲーム研究へと向かわせた原動力だったという。「解釈論」を謳う本書の議論は、いずれも個別具体的なテキスト(登場人物のセリフなど)の分析や図像(グラフィックス)分析、物語分析、プレイヤーの反応分析に裏打ちされたものであり、結果的に本書はデジタルゲームを「解釈」するための可能なアプローチをほとんどすべて網羅している。
 
(3-3)東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生:動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)
「リセット可能」なゲームや「ゲームのような小説」では「リアルな人の生」や死は描けない、と主張した大塚英志に対して、著者は本書で、「リセットとリプレイを繰り返す」ゲームだからこそ経験可能な「もう一つのリアリズム」が存在し、事実それを小説のかたちに落とし込んで成功している事例がある、と反論する(拙著『デジタルゲーム研究』第7章参照)。本書ではゲームと物語を区別したゴンザロ・フラスカの論文も参照されており、ルドロジーとの同時代性が見てとれる。本書がいう「ゲーム的リアリズム」とは、「プレイヤー視点のリアリティ」に立脚して「ゲームのような現実」を描くことであり、当然ながらこの概念は、基本的にはゲームそのものではなく――ゲームは「ゲーム」であり、「ゲームのような」ものではないから――それ以外のジャンルの作品に適用される。著者は、桜坂洋のライトノベル『All You Need Is Kill』(2004年)を「ゲームの経験の小説化」として、また舞城王太郎のメタミステリ『九十九十九』(2003年)を「ゲーム的リアリズムについての小説」として高く評価する。しかし興味深いのは、著者がこの2つの文学作品の間に挟み込むようにして、「ゲームと文学の境界事例」のような作品を取り上げていることだ。それが『ONE~輝く季節へ~』(タクティックス、1998年)、『Ever17』(キッド、2002年)および『ひぐらしのなく頃に』(ゼロセブンスエクスパンション、2002~2006年)である。つまり「ゲームのような小説」をめぐる議論が「小説のようなゲーム」の議論に、さらには「ゲームのような小説のようなゲーム」の議論へと段階的にずらされていくのである。ここには、「ゲームはメタ物語的である(ゲームは物語を複数化する)」という本書の中心命題に出てくる「メタ」とは別の意味合いの(しかし著者はその違いに気付いていない)「メタ」がある。それはいわばジャンルの枠組みに関わる「メタ」である。ここから本書を「メタゲーム」(ゲームのまわりに発生するゲーム)に関する先駆的理論として再読解する可能性が開けてくる。文学とゲームの相互越境や鏡像関係の考察は、ゲームとゲームの(メタ)関係にも応用できるからである(拙著『デジタルゲーム研究』第8章参照)。

(4)欧米のゲーム研究(4冊)

「ゲーム研究」は、1990年代末から2000年代初頭にかけて、デンマーク、ノルウェー、フィンランドといった北欧諸国を中心にして成立し、その後、他のヨーロッパ諸国や南北アメリカ、アジア諸国にも広がって、今日に至る。そこには膨大な数の重要文献が存在するが、ここではそのうち日本語で読むことができるものを紹介する。

(4-1)ケイティ・サレン/エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ:ゲームデザインの基礎』(2004年、山本貴光訳、上・下、ソフトバンク クリエイティブ、2011~2013年;ニューゲームズオーダー、4分冊、2019年)
原著は英語で2004年に刊行された。2011年にその日本語版が刊行された上巻(ユニット1、ユニット2を収録)は、多くの日本人の読者にとって、2000年代に成立した「ゲーム研究」の分野に最初にふれる機会となったと思われる(その意味で翻訳者には感謝しても感謝しきれない)。当時、ゲーム研究の海に漕ぎ出したばかりだった筆者にとっても、本書は貴重な羅針盤となった。ただし著者の2人は、「研究者」というよりも「ゲームデザイナー」であり、これ以降はさほど熱心に論文や書物を執筆しているわけではない。その副題も示す通り、この書は「ゲームデザイン」の本であり、著者も冒頭で、本書は「ゲーム開発」の本(プログラミングや開発ツールの指南書)ではない、と断っている。ただし本書は、単なる「ゲームデザイン」の本ではない。著者はゲームデザインの目標を「意義深い遊び(meaningful play)」を生み出すことにおき、そのために「遊びの意味」とは何かを探究する。遊びの意味は、プレイヤーの「行為」とシステムがもたらす「結果」の関係から生じる。ならば「システム」とは何か、「行為」とは何か。そしてゲームプレイヤーの行為を特徴付ける「インタラクティビティ」とは何か、行為を生み出す「ルール」とは何か。さらには、そもそも「ゲーム」とは何か、「遊び」とは何か。こうした具合に本書は、ゲームについて考えようとする限り、どんな立場や職業の人であろうと――デザイナーもプレイヤーも研究者も――誰もが知っておかねばならない基礎的な概念や用語を、1つずつ丁寧に定義し、吟味していく。その際、掘り下げがやや物足りなく感じられる部分もあるが、本書の業績は、ゲームデザイナーや研究者が探究すべき領域やテーマの全体図を提示していることにある。本書がゲーム研究の初期の「マイルストーン」として、今日でも「基礎文献中の基礎文献」とされているのはそのためだ。各章の末尾にある「読書案内(Further Reading)」も研究の導入として有益である。また、同じく各章末尾に置かれた「まとめ」も的確で、いかにもアメリカの大学出版物らしい教育的配慮が見てとれる。
 
(4-2)イェスパー・ユール『ハーフリアル:虚実のあいだのビデオゲーム』(2005年、松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年)
原著は英語で2005年に刊行された。著者がコペンハーゲンIT大学(デンマーク)に2003年に提出した同題名の博士論文に基づく。著者はエスペン・オーセットやゴンザロ・フラスカと並んで、筋金入りの「ルドロジスト」(ゲームにおけるナラティブやストーリーに対して否定的な立場)としてゲーム研究の世界に登場したが、2001年頃を境にして、次第にルドロジストとしての主張を弱めていく。本書は、著者の立場が「ルドロジーとナラトロジーの中間点」を狙うものへと移行したことを明確に示している(拙著『デジタルゲーム研究』序参照)。著者によれば、ビデオゲームで遊ぶことは「虚構世界を想像しながら現実のルールとやりとりする」ことである。つまり1つのビデオゲームは「規則のまとまりであると同時に、一つの虚構世界でもある」、すなわち「ルールかつフィクション」である。だがここまでは、「ルドロジーとナラトロジーの中間点」を狙う者なら誰でも思い付くことかもしれない。本書の真骨頂は、ビデオゲームにおいてはルールとフィクションが必ずしも一致ないし調和しなくてもよい、むしろ両者に不一致や葛藤があった方が、ゲームとして面白いものになりうる、という指摘にある。ルールとフィクションがぴったり一致している場合、そこでのプレイヤーの行為とそれがもたらす結果は、現実世界のそれとさほど変わらないことになる。そうではなく、両者がズレていたり食い違っているからこそ、ゲームプレイは驚きと発見の連続(「えっ、どうしてこうなるの?」「ああ、こうすればこうなるのか!」)になるのだ。以上が本書の大筋だが、その途上で展開されている個々の議論、例えば、ゲームの定義論(「古典的ゲームモデル」)や構造論(創発型ゲームと進行型ゲームの区別)、時間論、空間論なども秀逸であり、その後多くの研究者によって参照されてきた。
 
(4-3)イェスパー・ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する:悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』(2013年、株式会社Bスプラウト訳、ボーンデジタル、2015年)
原著は英語で2013年に刊行された。原題は『失敗の芸術:ビデオゲームを遊ぶことの苦痛についての試論』であり、少々凝った日本語の訳題は意訳としては間違っていないが、「失敗(failure)」「芸術(art)」「苦痛(pain)」というキーワードがことごとく抜け落ちてしまったことは残念である。なお本書の題名にある「芸術(art)」は、本文中ではより精確に「芸術形式(art form)」(「芸術ジャンル」の類語)と呼ばれており、本書が主張しようとするのは、ゲームも映画や文学と同様に「1つの芸術形式」として理解することができるし、またそうするべきである、ということだ。そして、ゲームを芸術になぞらえるにあたり、「面白さの芸術」や「遊びの芸術」といったありきたりな言葉は選ばずに、よりによって「失敗の芸術」などという聞き慣れない言葉を「発明」するところに著者のセンスが光る。しかもこの言葉は、単なる奇をてらった思い付きではまったくなく、ゲームと芸術を類比的に捉えるうえできわめて核心的かつ決定的な問題に関わるものとして選ばれている。すなわち、ゲームにおける「失敗のパラドックス」(人は一般に失敗を避けようとするはずなのに、どうして失敗すると分かっていてゲームを求めるのか)は、芸術における「悲劇のパラドックス」(人は一般に苦痛を避けようとするはずなのに、どうして苦痛を経験すると分かっていて芸術を求めるのか)と同型であることを著者は指摘する。著者がこのパラドックスの解決法として採用するのは、「失敗を避けたい」という「直接的欲求」とは矛盾するような長期的欲求、すなわち「失敗を含めた経験をしたい」という「美的欲求」を取り出すことである。そしてこうした美的欲求が向けられる対象となりうる点で、ゲームは芸術といえるのだ。ここから著者は、ゲームにおける失敗の精緻な分析へと向かう。失敗の感覚、失敗の成立要件、虚構のなかでの失敗が考察される。当然ながら本書の結論は「ゲームは失敗の芸術である」となるわけだが、それが「既存の芸術概念」に寄りかかってなされる主張ではなく、「芸術概念それ自体のアップデート」を伴う主張であることに注意しなくてはならない。
 
(4-4)ミゲル・シカール『プレイ・マターズ:遊び心の哲学』(2014年、松永伸司訳、フィルムアート社、2019年)
原著は英語で2014年に刊行された。著者はコペンハーゲンIT大学で教鞭をとるゲーム研究者である。日本語訳書には「遊び心の哲学」という副題が付いているが、「遊び心(playfulness)」は本書の最重要のキーワードである。「遊び心」とは、「遊びの文脈の外側で遊びを使う能力」のことであり、「遊びの特性のいくつかを、遊びでない活動に投影する態度」である。例えば、建物の階段をすごろくのマス目に見立てて、友達とじゃんけんをしながら上ったり下りたりして遊んだことや、インターネットの掲示板や画像掲示板に(故意にか誤ってかはさておき)文脈とまったく無関係な投稿がされているのを見て思わず笑ってしまったことが、誰でも1度や2度はあるだろう。そしてこの「遊び心」は、シカールが指摘する遊びの7つの特徴の1つ――そしてそのうちのもっとも主要なもの――である「流用(appropriation)」と密接に関係している。「遊び心を発揮するとは、もともと遊びのために用意されたものではない文脈を流用することにほかならない」と彼はいう。そもそも彼が「遊び(play)」についての本を書いたのは、現代人が「ゲーム」にばかり気を取られていて、「遊び心」や「流用」がもつ価値や力を忘れかけているからであった。「ゲームは、遊びの単なる形式」にすぎず、「遊びの唯一の形式」ではない、という当たり前の事実を彼は現代の読者に思い出させようとしたのだ。「ゲームはたいして重要ではない」。まさしく題名通り、「遊びが重要(プレイ・マターズ)」というわけだ。そして、遊び道具と遊びの文脈――おもちゃ(玩具)、遊び場(プレイグラウンド)、美的表現、政治的行為など――からなる生態系の一部としてゲームを位置付け直そうという本書の目論見は、見事に達成されている。おもちゃ(玩具)や遊び場(プレイグラウンド)を論じた書物としても貴重である。


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ゲーム研究を極める30冊〈1〉/吉田寛|東京大学出版会 (note.com)
ゲーム研究を極める30冊〈2〉/吉田寛|東京大学出版会 (note.com)
ゲーム研究を極める30冊〈4〉/吉田寛|東京大学出版会 (note.com)
ゲーム研究を極める30冊〈5〉/吉田寛|東京大学出版会 (note.com)

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