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ゲーム研究を極める30冊〈1〉/吉田寛

(1)日本語で読める遊び・ゲーム論の古典(5冊)

「ゲーム研究(Game Studies)」は21世紀に誕生した新しい学問分野だが、遊びやゲームについての研究は古くから哲学や心理学、人類学、教育学といった分野でなされてきた。ここに紹介するのは、欧米で刊行されてきた遊び・ゲーム論の古典のうち、現在われわれが日本語で読めるものである。翻訳者に感謝しなくてはならない。

(1-1)ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス:文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』(1938年、里見元一郎訳、講談社学術文庫、2018年)
原著はオランダ語で1938年に刊行された。「文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み」という長い副題をもつ。いわずと知れた遊び・ゲーム論の古典中の古典であり、「生物学的適合性」に資するものとして遊び・ゲーム(オランダ語で「spel」)を「合理的に説明」しようとしてきた、それ以前の学問的伝統(モーリッツ・ラザルス、カール・グロースなど)をひっくり返し、人間の理性をも超える「過剰なもの」「余計なもの」として遊び・ゲームを捉え直し、しかもその遊び・ゲームを「すべての文化に先立つ」ものとした――それによって「人間」の定義自体を変えてしまった――そのラディカリズムは、今もまったく色褪せることがない。しかもその主張は、遊び・ゲームの精神を失った同時代の文化に対する批判意識と表裏一体だった。敵を「競争相手」ではなく「殲滅すべき対象」と見なすべきとしたカール・シュミットの戦争論を名指しで批判する本書は、第2次世界大戦の開戦前夜に鳴らされた警鐘でもあった。ホイジンガは、ナチス・ドイツによるオランダ占領中、強制収容所に拘束されている。
 
(1-2)ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(1958年、多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1990年)
原著はフランス語で1958年に刊行された。本書でカイヨワが試みたのは、遊びを通して社会の「型」を理解しようという「遊びを出発点とする社会学」である。ホイジンガが歴史学者であったとすれば、カイヨワは社会学者であった。彼が本書で提示した遊び・ゲームの4分類(アゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模擬、イリンクス=眩暈)は、後にそれだけがひとり歩きして有名になるが、その本来の文脈を忘却してはならない。カイヨワによれば、新聞や週刊誌の星占い(迷信)にすがる大衆の態度は「アレアの堕落」の兆候であり、公正な競争の規則を軽視し、「成功」だけを目的とする国家や企業の姿勢は「アゴンの堕落」の兆候である。ホイジンガと同様、カイヨワもまた、遊び・ゲームを通して「時代診断」をしようとしたのだ。また、遊びを通して「聖なるもの」を再定義する点で、カイヨワは人類学に接近している。「遊び」と「聖なるもの(信仰)」を同一視したホイジンガを批判して、彼は「聖なるもの-遊び-世俗(生活)」という三項関係を措定し、「遊び」と「聖なるもの」の間に一致ではなく対照性を見出す。遊びにおいては「形式(手段)のみ」が問題となるが、「聖なるもの(信仰)」にとっては「内容(力)のみ」が重要である、という弁証法的関係がそこから導かれる。

(1-3)オイゲン・フィンク『遊び:世界の象徴として』(1960年、千田義光訳、せりか書房、1985年)
原著はドイツ語で1960年に刊行された。著者はフッサールの現象学およびハイデガーの存在論の流れを汲む哲学者であり、人間と存在、世界の連関の仕方を、遊びを通して解明しようとした。フィンクは、西洋形而上学の伝統における遊びの解釈を批判する。遊びの「非現実性」を、派生的仮象や反射、原像的事物の模写として説明する限り、遊びは――プラトンの詩人批判と同じ論理によって――労働や戦いや愛よりも低次のものに甘んじざるをえないからだ。そしてフィンクが「形而上学」と対峙するべく手を伸ばしたのが「神話(祭祀)」であり、「模写」と対置するべく、そこから彼が取り出した概念が「象徴」である。象徴(シュンボロン)とは「断片的なもの」が「補足」されて全体性を獲得することであり、遊びを象徴として捉えるならば、遊びがもつ「非現実性」は、世界の仮象や模写ではなく、世界全体の象徴的再現の根本的特徴として理解されることになる。模写が(プラトン流に解せば)「非生産的・非創造的過程」であるのに対して、象徴は「生産的・創造的作用」である。「遊びは本質的に生産作用」なのである。初期ギリシャ哲学者ヘラクレイトスは「世界進行は、将棋の駒を並べて遊ぶ子どもであり、子どもの王国である」(断片52)といった。そこでは存在者の全体が、しかも支配する世界として、「遊ぶ子ども」に類比されている。もっとも根源的な産出作用は遊びの性格をもつ。世界は遊びとして支配する。世界は遊ぶ主体のいない遊びであり、そのなかで全存在者が普遍的に「現出」する。遊び=世界を前にしたとき、人間と神は対等であり、ここにこそ遊びの祭祀的起源がある。もちろんハイデガーに先んじてヘラクレイトスを再評価したのはニーチェであり、フィンクの西洋形而上学批判も、ニーチェからの系譜に連なっている。
 
(1-4)ジャック・アンリオ『遊び:遊ぶ主体の現象学へ』(1969年、佐藤信夫訳、白水社、1974年)
原著はフランス語で1969年に刊行された。当然ながら著者は、ホイジンガとカイヨワの先行する議論に依拠しつつ、それを乗り超えるために自らの思考を組み立てる。アンリオによれば、遊びを論じる際に、われわれは「二種類の誘惑」に抵抗しなくてはならない。すなわち「すべては遊びである」(ホイジンガ)という見方からも、「遊びは存在しない(遊びに見えるものは実際には遊びではない)」(ジークムント・フロイト、メラニー・クライン)という見方からも、距離を取らなくてはならない。また、遊びの分類(ピアジェ、カイヨワ)によって、かえって遊びの本質が見えにくくなっていることにも注意しなくてはならない。多種多様な遊びが、それにもかかわらず、どれも同様に「遊び」であるといえるのはなぜか。それを考えるためには、遊びの多様性よりも、むしろその「意味的核心」を探究しなければならない。そうした方法的意識のもと、アンリオは、遊びを遊びたらしめている「態度」の分析へと向かった。彼によれば、「遊戯的態度」は、不確定性(未決定の余裕の幅をもつこと)、二重性(自分が遊んでいると自覚しながら遊ぶこと)、イリュージョン(錯覚の世界に参入すること)という3つの特性をそなえたものとして理解される。アンリオが最終的に見出したのは、「想像すること」と「つくる(する)こと」という人間の2つの能力の接続点としての遊びであり、そして「自然のなかに遊びを導入する存在」としての人間であった。
 
(1-5)バーナード・スーツ『キリギリス:ゲームプレイと理想の人生』(1978年、川谷茂樹・山田貴裕訳、ナカニシヤ出版、2015年)
原著は英語で1978年に刊行された。著者はアメリカ出身で、カナダの大学でも教鞭をとった哲学者で、スポーツ哲学の業績でも知られる。怠け者で遊び暮らしたキリギリス(イソップ童話「アリとキリギリス」の主人公)は臨終の床で、弟子達を前に、「どんな人生も結局はゲームかもしれない(つまり、君らも所詮、私と同じなのだ)」という謎めいた台詞を言い残して世を去る。その解釈をめぐり、スケプティコスとプルーデンスという2人の弟子が交わす対話のかたちで本書は展開する。本書を際立った存在としているのは、その独特なゲームの定義である。スーツによれば、ゲームとは「非効率的な手段が意図的に選ばれる目標追求型活動」である。例えば、ゴルフボールを穴に入れるのであれば、手を使って入れるのがもっとも「効率的」である。だがゴルフのルールはそれを禁じ、先端に金属が付いた棒でボールを前に進めて穴に入れるというもっとも「非効率的」な手段を課す。つまりゲームプレイとは「不必要な障害物を自ら望んで克服しようとする試み」なのである。さらにもう1つ、スーツの考えるゲームの成立要件として重要なのが「ゲームをする態度(lusory attitude)」である(この語については拙著『デジタルゲーム研究』第4章参照)。それは、ルールを受け入れることで可能になる活動(つまりそのゲーム)を成立させるためだけにルールを受け入れることを指す。注意すべきは、この態度が、「ゲームに対する態度」ではなく、「ゲームのルールに対する態度」であることだ。つまり、「ゲームのルール」さえ受け入れていればよく、あとはプレイヤーがそのゲームを楽しんでいようがいまいが、あるいは純粋な趣味としてやろうが仕事として嫌々やろうが、ゲームの成立にとっては無関係である。したがってこの基準に照らせば、プロフェッショナルなスポーツ選手も、アマチュアと同じ資格で、正当に「プレイヤー」として認められる。振り返れば、ホイジンガやカイヨワは、プロが「プレイしている(遊んでいる)」ことを認めたがらなかった。しかしこのアマチュアリズムは、1970年代のアメリカではさすがに通用しなかったのだろう。これは必要なアップデートだったといえる。しかし、この「プロもアマもプレイヤーとして対等である」説は、冒頭でふれた「人生とゲームは区別できない(かもしれない)」問題を再び招き寄せてしまう。ゲームの内側と外側がどうつながっているのか、あるいは両者は断絶しているのか。「これはゲーム(遊び)ではない」と確信をもって言い切れるような人生のルールや目標があるのか。それこそが本書が残した最大の問いである。

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ゲーム研究を極める30冊〈2〉/吉田寛|東京大学出版会 (note.com)
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