うとQ世話し 交流とはお互いの差違を楽しむ事也

2020/10/19
(うとQ世話し 交流とはお互いの差違を楽しむ事也)
前々前回の記事では「同調圧力軍団」、前々回では「嫉妬心」そして前回の記事では「嫉妬心」の裏に「疎外」が隠されていたのではないかと推測致しました。
そこで今回は更にその推測を進めてみようと思います。
無反応、無接点が生み出す「疎外」
では、その反対語はといいますと
「反応(あり)」「接点(あり)」
となります。これは換言すれば「交流、やり取り」即ち
「コミュニケーション」
しかし、ここで問題が。
反応がいいものであれば、OK
接点がジャストポイントでお互いを侵食し合わなければ、これまたOK。
しかし、反応が悪いものであったり、お互い、左右から相互に半円を描いた接点が重なりあったりしていたら、領土不可侵条約違反で、争いの元になる。
しかし、よく考えてみれば「反応がいつも100%いい」とか「常に接点が付かず離れずギリギリのジャストを維持している」などという状態は、人間界、いや自然界にすらあり得ません。
反応は常の好悪両方ですし、接点は深く交わったり離れたりの不安定極まりない繰り返しが、それこそ「常態(ノーマル)」です。
それが「常態(ノーマル)」なのに、我々はいつの頃からか「自分への反応は常に100%いつも好反応」とか「1mmでも自分の半円内に交わってくれば、それは侵害行為」だと思い込まされてこなかったでしょうか?
そんな極めてレアケースが「常態(ノーマル)」なのだと。
我々が、もしそれを探していたのだとすれば、そしてそれが「無い」と騒ぎ、不条理だと騒いでいたのだとすれば、それは「あり得ない解を求めて」の完全に無駄な抗議の時間を過ごしていた可能性があります。
仮に「反応は好悪両方ある」「接点位置不動不変など皆無。侵害、離散が常」なのが「常態(ノーマル)」なのだと認識が変われば「不平」「不満」「不条理」感の量も変わるような気がするのですが。
「自分が100%もない。代わりに相手の100%もない。50対50の半々で、相半ばする」
だから残り50を貸したり、借りたりして助け合う。それが「新常態(ニューノーマル)」
嫉妬心はじめ「争い」は個々に「差違」がある事から生じます。
全く同じ金太郎飴であれば、争いはなくなりますが面白くもおかしくもない。
だからお互いの差違を認め受け入れ、その「差違」を楽しむ。
それが「ニューノーマル(新常態)」になれば嬉しき事この上なし、でございます。


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