うとQ世話し インテリ性って私用目的?

2021/3/17
(うとQ世話し インテリ性って私用目的?)
最近ふと、思った事ですが、それは
「我が国の裕福なインテリ層家庭では、産まれてから社会に出る迄、その子供が社会に出た折に再現可能率、又は出現可能率ほぼゼロの様な状態で育てているのではなかろうか?」
という疑問でした。
昔風の言い方をすれば「温室育ち」「過保護」「ちやほや」
こうした環境の下で育った子供が、突然、風よけも温度コントロールも定期的栄養供給もない環境下に放り出された場合どうなるか?
突然就活面接会場にワープしたなら「不適合拒否反応を起こし自壊する」

「言っていたことと全然違うじゃないか」と親を恨んだり「ちやほやしてくれない社会に対して恨みを持ったり、すねたり、八つ当たりしたりする」か、又は
「社会の中でも、今までの家庭内同様にちやほやしてくれそうな一部の特権階級に、何の苦労もなく、お手軽簡単になれる方法を夢見て探そうとするか」
のいずれかになるような気がします。
どの道、本人にとっても社会にとっても良い結果は出てきそうにもありません。
一番目は引きこもりや自殺、二番目、三番目は犯罪や不正義の温床にもなりかねません。
こうしたことが生起する原因の一つとして、良いか悪いか、それが妥当か妥当でないかは別として、現時点では事実としてそうなっている「社会のリーダー層である、インテリ層」の子育てに大きな問題があるのではないかとも思っております。
叱ることを「非民主的な、インテリにあるまじき行為」と考え、一切叱らず「褒めたら褒めっぱなし」か、逆に「言う事を聞かせよう、自分のコピーを作ろう」と「合法的虐待まがいの家庭内蟄居幽閉生活(実際には外出している折にすら遠隔コントロールで)の隷属隷従を強いる」かのいずれかになっていはしないでしょうか?
要するに「褒めるばかり」「叱るばかり」の一面的な偏り。
どうして「時には褒め時には叱る」の両面的、複数的な交互換性を持たないのでしょう?
どうして家庭内で「状況を一元的に纏め上げよう」とするばかりで「時には之、時にはあれ」といった「状況変化」を敢えて持ち込んだり、認めたりしないのでしょう?
「変化の受容」を一貫性の欠如は「恥」と見做すのでしょう?
おまけに折角高等教育まで受け、獲得したその「インテリジェンス(知性)」を公の為に供せず、自分個人のお金儲けや栄達、又はその家族、一族への便宜供与にばかり明け暮れてしまうのでしょう?
或いは又、言うだけで実行もせず責任も取らない。
言うだけなのでどんな綺麗事でも言える。綺麗事であればある程人気と価値が高まる。
その言を恰も「存在しうるもの」として我々が信じ、到来しないと落胆を感じて不満を抱く。それが結果的に我々の中に実態以上の不幸「感」を醸成させる。
此れ等の件に関しては、今のインテリ層の「視野の狭さと無責任さ」の中に重大な過ちがある様な気も致します。
May I ask you? Intelli san
「Isn`t it私用目的?uh?」

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