「感情を続けていく」『零合』編集長に聞く!百合小説の”現在地”と”目的地”【インタビュー企画 #2】
稀に見る「百合総合文芸誌」の宣戦布告。思えば「序文」の段階から、『零合』は激しく熱を帯びていた。その登場の鮮烈さは、多くの百合愛好者たちの心を射止めたに違いない。
2023年2月14日。百合総合文芸誌『零合』は「零合舎」による商業流通誌として産声を上げた。出版不況が叫ばれる中、新興の出版社が送り出す文芸誌のテーマは「百合」。その挑戦は、いささか無謀に見えたかもしれない。
だが『零合』は下馬評を裏切る。発売から間もなくして Amazon からは在庫が消え、SNS には『零合』の紙書籍を求める声が反響した。2月後半には、文芸誌として異例となる重版も決まり、今なお快進撃は止まらない。
にわかに注目を浴びた『零合』だが、依然として、その背景は謎に包まれたままである。冒頭に引用した「序文」からは激しい熱を感じる。だが、その意味はどこか判然としない。「熱的死」とは何か。「割り切れない表現」とは何か。『零合』の作家と編集者たちは、この文芸誌にどんな夢を託しているのか。
創刊号を読んだ百合読者たちは、あまりの「ノンジャンル」ぶりに困惑を覚えたのではないだろうか。『零合』という場所には、同人/商業、エンタメ/文芸の区別を問わず、百合小説の表現者が集う。なぜ彼らは『零合』に身を寄せるのだろう。
2023年3月初旬。東大安田講堂にほど近い某所にて、私たちは零合舎代表・れむれむ氏へのインタビューを敢行した。以下に続くのは、計3時間に及んだインタビューの記録である。
『零合』はどこから来て、どこを目指して行くのか。作家、編集長、そして出版社代表という三つの顔を併せ持つ、れむれむとは何者なのか。百合小説の最前線、その秘密が今、明かされる——。
れむれむ
「零合舎」代表。2011年頃よりコミケ等の即売会に参加し、2015年の個人誌以後は小説を中心に同人作家として活動している。自身が編集長を務める『零合』創刊号に「東京デザート2019」を寄稿し、作家として商業デビューも果たした。アイコンは『璃菟樹の回顧録』の主人公である安芸津伊月。
『零合』とは何か?
「百合総合文芸誌」として創刊する理由
――― 『零合』創刊号の序文からは「百合総合文芸誌」として創刊することの覚悟と矜持が感じられました。まずは現在の百合文化をめぐる認識をお聞かせください。
れむれむ ここ数年は目の前のことに向き合い続けてきたので、今の個別の作品には疎いのですが、アイキャッチ的に「百合」を取り入れた作品は増えている印象があります。そういう意味で「百合」の需要は高いですし、一見すると「百合作品が人気」のように見えるのですが、却って「女の子同士のライトな関係こそ百合である」と見なす向きは強まったと感じますね。「総合文芸誌」を掲げる意味は、そこにあるのかなと思います。
――― なるほど。ある意味で『零合』は「百合」の境界領域に取り組もうとしている、ということですか?
れむれむ というより、以前であれば「百合」の中心部として捉えられてきたはずのものが、ビジュアルの先行する媒体では「百合を予感させるもの」へと置き換えられている感覚があるんですよね。あえて「百合」と言わなければ、そもそも広いはずの「百合」が追い詰められていく懸念がある。
――― もともとの「百合」の多様さが損なわれつつある、という認識があるのですね。
れむれむ そうですね。「収斂進化」という言葉がありますけど、私自身、百合ジャンルはそうならなくて良いと考えているんですよ。ただ最近では、それが一か所に収斂しつつある。需要に適応していくだけでは広がる余地が無くなるし、「百合」そのものからは人が離れていくと思います。「百合は看板にできない」と言われればそこまでですが、現状を変えたいなら作家自身が「この作品は百合ですよ」と宣言して書くのが手っ取り早い。ただ、それをやるためには……。
――― 新しい出版社が必要になる。
れむれむ そうなります。もちろん個人でそれをやろうとしていた作家さんはいるのですが、それだけでは限界がある。だから私たちは、「点」ではなく「面」で攻勢をかける必要があると考えています。
――― 何となく『零合』の背景が掴めてきたように思います。ところで先ほど、「百合」に対する捉え方が収斂しつつあるというお話がありました。具体的にはどういう変化を感じられていますか?
れむれむ 大いに語弊を含む表現ですが……作り手の認識と無関係に「低俗か高尚かで百合か否かを判定される」時代に来ていると思います。「作品をそんな言葉で茶化すな」と言われることさえある。本来、「百合」に茶化すニュアンスなど無かったはずで、私個人はそこに温度差や危機意識を感じています。たとえば、私自身の個人誌も重ための現代劇で「百合ではなくレズビアンものです」と当時から言われることが多々ありましたし、シリアスな話は年々「百合」として出づらくなっている。そんな中で「百合を名乗って百合を描く」意義に賛同する作家さんが『零合』創刊号には寄稿してくださったと思います。
――― 「百合でシリアスは描けない」という流れを変えようと意識されているのですね。
れむれむ そうですね。「百合」から想起される印象にギャップが広がり、共通認識は極めて脆弱になっていると感じます。「キスまで行くと百合じゃない」と言う人がいる一方、「性愛でないなら百合ではなくシスターフッドかロマンシス」と区別する人も出てきて、端的には「受け手が心地よく感じられる範囲で十分」という発想だと思うのですが……双方うっすらと「百合をどこか見下している」点で変わりないように感じたり、板挟みに悲しくなる日もあります。だからこそ『零合』は「百合」であること以外はノンジャンルを謳って、同時に「これは百合です」と積極的に言う必要がある。読者に「百合ではない」と捉えられるのは残念ですが、仮にそうなっても最終的に「零合派」と呼ばれるような流れを作れたら勝ちだと考えています。
――― 表現者側にとって望ましい環境を作るために、まずはニーズを創出していきたいということですね。
れむれむ そうですね。もちろん読者に求められるものを作るのは大事で、より正確に言えば「求められない出版は継続困難」なのが現実です。ただ同時に、出版には新しい価値を作る使命があるとも感じます。「ここに載っているのは百合作品です」と宣言した上で、読者に「もしかすると自分はこういう百合が好きかもしれない」と発見してもらうことができれば成功ですね。
「百合文芸小説コンテスト」について
――― ところで、2019年からは「百合文芸小説コンテスト」が開催されています。これについてはどう思われますか?
れむれむ 私はまったくの部外者なので「私見を述べる」前提でよければですが……。
――― ぜひ、お願いします……!
れむれむ 「文芸」と銘打たれていますが、初期は比較的ライトノベル寄りの作品が求められていたと思います。個人的に、第1回の受賞作で「文芸」を感じた作品は詠野万知子さんの「サリーとアンの秘密」くらいですし、洲央さんの「ラブソングを叫ぶワケ」はライト文芸寄りの印象でした。
第2回からはガガガ文庫さんが入られたので、投稿者層はライトノベル寄りの方も増えた印象でした。
――― その後の回からは、『零合』創刊号に寄稿されていた作家さんも何名か受賞されています。
れむれむ そうですね。投稿作が増えてきた第2回以降は、お知り合いがたくさん受賞されていました。
――― ところで先ほど、ライトノベル寄りの作品が求められていたというお話がありましたが、第4回では坂崎かおる先生が大賞を受賞されていますよね。こちらは明らかに文芸作品として読めそうですが……。
れむれむ 第4回からはガガガ文庫さんと入れ替わりで河出書房新社さんが加わって、趣の異なるコンテストになりましたね。第3回の「電信柱より」でもSFマガジン賞(のちに竹書房『ベストSF2022』に採録)の坂崎さんは、第4回の「嘘つき姫」が『百合小説コレクション wiz』(河出文庫)に収録される形となりました。
――― たとえば「嘘つき姫」のように、文芸寄りの作品が「百合文芸小説コンテスト」に投稿され書籍化されることで、「百合」の現状を変えていくというアプローチもあるかなと感じたのですが、そのあたりはどう思われますか?
れむれむ 難しいところですね。個人的には、なかなか雑誌掲載・書籍化まで行けないのが現状だと思います。ねぎしそ(商業出版時のペンネームは「小野繙」)さんの短編が河出書房新社賞に選ばれてアンソロ収録されたのは大きかったと感じる一方、第2回・第3回のガガガ文庫賞受賞作は書籍化されていません。
――― 思ったように進んでいなかったところがあるわけですね。
れむれむ その分、第4回は明確に「書籍化するぞ」という意思を感じましたね。私はウェブ小説や電子書籍から遠い人間でしたが(コロナ禍の長期化で)一次創作が弱っていたのもあり、出版活動に際して綾加奈さんにお声がけしたときには、このまま一人で動くより同志を集めて動いた方がよいのでは、という気持ちがありました。
――― そうした流れの中で、零合舎を立ち上げられたということですね。
れむれむ そうですね。ただ誤解してほしくないのは、零合舎は「百合文芸小説コンテスト」の波に乗ろうとしたわけではないということです。『零合』の寄稿者に「百合文芸」の受賞者が多いので引き抜いたと思われそうですが、全くの偶然なんですよ。例として、 坂崎さんは「かぐやSFコンテスト」や「ブンゲイファイトクラブ3(BFC3)」でも注目していましたし、「百合文芸」第4回の最終選考の頃には「受賞後の書籍化で出遅れたらどうしよう」と勝手に焦っていたくらいで……実際そうなりました(笑)。もちろん私も受賞に異論はありません。『殺伐百合アンソロジー』の編集中もそんな感じでしたね。
ライトノベルの百合事情
――― 先ほどは文芸のお話を伺いましたが、ライトノベルについてもお聞きしたいところです。ひと昔前までは「百合は売れない」と言われていたようですが……?
れむれむ マンガに比べての肌感覚ですが……。文字媒体で「百合は売れない」と言われるのは、「どこに置けば手に取られるか」の導線を作りづらい点も大きいと感じます。「売りにくいものはプッシュしにくい」のかなと。
――― ライトノベルでは「百合」を売り出すための仕組みがまだ整備されていない。
れむれむ そうですね。文芸書(単行本)では帯に「百合」と入った本も増えてきましたが、ライトノベルはレーベル単位で棚が固まる(一部書店では百合小説棚が生まれていますが)ので、「百合」でデビューできる作家は少ない。数年前は「百合作品を出そう」という兆しを感じたのですが……。
――― 数年前というと、具体的にはどういう流れがあったのでしょうか?
れむれむ 例として、ガガガ文庫で百合ラノベが活発な時期がありました。悠木りん先生の『このぬくもりを君と呼ぶんだ』(第14回小学館ライトノベル大賞・優秀賞)などはデビュー時から「百合」として押されていた稀有な例ですね。
同レーベルでは、ツカサ先生の『明日の世界で星は煌めく』等も、表紙含めジャンル意識が強かった。
『SFマガジン』百合特集(2019年2月号)など「百合」と「SF」との組み合わせが立ち上がってきていた中の作品であるのも確かですが、「百合ラノベ」と呼べる作品が連続して刊行されていた時期がありましたね。けれど、この流れは残念ながら続かなかった。
――― なるほど……。ところで最近のライトノベルでは、「ガールズラブコメ」を主題とした作品が増えている印象があります。このあたりの流れはどう捉えていますか?
れむれむ 「ガールズラブコメ」という言葉はみかみてれん先生が使い始めて人口に膾炙したものだと思います。ただ、当然ながら「ラブコメ読者」に向けて書かれている側面は強い。ライトノベル読者にとって「百合」は「ラブコメ」のサブジャンル的に捉えられていると思います。
――― 「百合=ラブコメ」であるかのように語られている現状がある、と認識されているわけですね。どうしてそうなったのだと思われますか?
れむれむ あくまでもライトノベルとしてパッケージする上で正解がガールズラブコメだ、と認知されているのが大きいと思いますね。みかみ先生は同人小説で実績も出されていましたし、そもそもライトノベルでは長年シチュエーションラブコメの波が続いているというのもあります。一つ付け加えると、そういう商業作品が表立って「百合」を公称しないのも特徴的ですね。
――― なるほど……? どうして公称しないのだと思われますか?
れむれむ (マンガなど別媒体で)現実のマイノリティを取り巻く諸問題を扱う作品も増えてきた時代に、純粋な娯楽を「百合」として提示してしまうと、読者かつ当事者である側から反発や摩擦が生じるからだと思います。包括的な概念としての言葉を避けたほうが色々都合がよい。しかし結果として大多数が抱いている「百合」のイメージが、「百合」を冠さない中で再生産されている現状がある。
――― 仰りたいことはわかりました。しかし、「ラブコメが強い」というのはライトノベル特有の現象ですよね。百合ジャンル全体でも同じ問題が起きているとは限らないと思うのですが、そのあたりはどう思われますか?
れむれむ 確かにそうかもしれませんが、私がライトノベルに注目しているのはメディアミックスされやすい媒体だからです。昔「どれだけ人気原作でもアニメを観るのは9割以上が初めてのお客さん」との話を聞いて、個人的には目から鱗が落ちたんですよ。ファンとして深く浸っていると時々勘違いしますが、百合を嗜んでいる方よりこれから百合に触れる方が圧倒的に多い。その上で、百合はジャンルとして相対的にとても小さいので「1割の原作ファン」をまず大きくする必要があると思います。
――― これから新規に参入してくる読者が、ライトノベルからの影響を受けやすいのは事実かもしれませんね。
れむれむ これから先、アニメ化されて人気を集めていく作品の中には、「百合」を称さないが「百合を予感させるもの」を求めるファン向けの作品が増えていくと思うんですよ。創刊号に寄稿いただいたみかみ先生のコメントを借りるなら、『零合』はライトノベルを入口にして百合を知った方に「こんな百合もあります」と提示していかねばならない。これまで「百合」ジャンルで捉えられてきた作品たちがどこにも行けなくなる前に、(マンガには『コミック百合姫』さんがあるものの)小説の専門誌が必要だと感じました。
――― 自分のような読み手の側から見ると、たとえば「百合ナビ」のように多様な作品が「百合」として受け入れられている現実はあるように思います。それについてはどう思われますか?
れむれむ 確かに「百合ナビ」さんや「百合小説bot」さんは、よい意味で通な作品が紹介されることもあります。ただ、メインストリームがマンガ含めてラブコメに寄ってきているのは変わらない気もしており、「通な情報」は「通な読み手」にしか共有されていない感がもどかしいところで……。「今そこにいる読者」に支えられている事実をひしひしと感じつつも、その外側にいる「初めての読者」に届ける導線を、書き手としても編集者としても常に意識していきたいですね。
多様性を育むための場所
――― 零合舎には発足時より7名の作家が所属されています。みなさん「百合」に対しては同じような感覚を抱かれているのでしょうか?
れむれむ ご自身の作品が「百合と呼ばれることに異存ない」という作家さんが、「そういう場所を求めていた」という感じで集まっていますね。ただし零合舎に集まる以前から各々は活動していました。紅坂紫さんは『アジアSFアンソロジー』や『人肉食百合アンソロジー』などのアンソロで活発に編集・寄稿されていましたし、綾加奈さんは個人の電子出版では有名な方でした。山口隼さんは商業デビュー後に『ガンナー・ガールズ・イグニッション(GGI)』で既に百合ラノベを書いておられましたし。
――― なるほど。それぞれの作家さんとはどういう経緯で知り合われたのでしょうか?
れむれむ そこは合縁奇縁ですね。紅坂さんとは『人肉食百合アンソロジー』第一弾でご一緒して、そのときから書き手としても編集としても、私より全然スキルが高い印象はありました(笑)。私の周辺に限らず、2019年以前のコミケ・コミティアでは創作百合でも多くの作家さんが活動されていました。とは言え「みかみてれん先生が同人百合小説の流れを作った」的な話が出る程度に(私含めそれ以前から作家さんはいましたが)、一次創作の百合小説はささやかなものだったと思います。
――― コミケ・コミティアのような対面の即売会を中心として、同人百合小説のコミュニティ自体は存在していたわけですね。
れむれむ コロナ禍に入るとイベントが開催されなくなり、時を同じくしてウェブ上では前野とうみんさんが主催の「殺伐感情戦線」のような投稿企画も起こりました。そういった流れは2021年の『殺伐百合アンソロジー Edge of Lilies』にも繋がっていきます。洲央さんが『いつか君と、輝く星に』を『コミック百合姫』で連載されたり「百合文芸コンテスト」周りもアツかった頃ですね。
――― もともと同人のシーン自体が存在していたからこそ、『零合』は「そういう場所を求めていた」という集まり方になるわけですね。
れむれむ そうですね。『零合』はこちらから「〇〇百合を書いて下さい」とお願いして書いてもらうより、そもそも「百合」に関心のある作家さんに「こんなん出ましたけど」とご寄稿いただきたいなと考えています。需要と供給を考えれば、編集サイドは「これで通る企画を考えてください」……とまでは行かなくても流行りのものを組み合わせて「何かやりませんか」というアプローチになってしまう。そうなると「今の百合で十分」な読者へ向けたものになりますよね。それは『零合』のやりたいことではないので。
――― ある意味では「百合らしくないもの」だけど、それが「百合」として提示されていることに意味があるということですね。
れむれむ 「らしさ」は「伝わりやすさ」とも言い換えられますが、むしろ「これも百合なのか」というように新しい価値を発見させることができれば、その人の中での「百合」の許容範囲が広がると思うんですよ。そういう読者が増えていけば、さらに色んな形の「百合作品」が生まれていく。商業的に認められる数字が出れば企画が通りやすくなるし、ジャンル全体が自然と発展していく。そこを目指すには絶対的な裾野の広さが求められると思います。「零細なのに志だけは高い」と言われそうですが、混沌とした場でこそ生まれてくる作品はありますしね。
――― 『零合』は「百合である以外はノンジャンル」という編集方針を掲げられています。
れむれむ そうですね。『零合』ではエンタメと文芸を分け隔てなく掲載しています。編集者から指示を出すことは少なく、逆にお任せするケースもあります。たとえば創刊号の裏表紙は、『GGI』で繋がりのある山口さんと一色先生に委ねていたので、私はほぼノータッチでした。
れむれむ 一色先生は後に『コミック百合姫』表紙(2022年度)もご担当されている作家さんですし、個人的にもご寄稿は嬉しかったですね。
もちろん、商業出版物としてチェックすべき点は山ほどあっても銘々の「百合観」は貫いてほしい。作家さんを信用しているというのもありますけど、いい意味で同人誌的にやりたいなと考えているんです。それぞれが色んな作品から影響を受けているけど、最終的に出力されるものが「百合」になるのなら、それを集めた本があると面白そうだなと感じたのが『零合』の出発点ですから。
れむれむとは何者か?
「本」という形式への憧れ
――― ここまでは『零合』を中心にお話を伺いました。ここからはガラリと雰囲気を変えて、れむれむ先生のパーソナルな部分をお聞きしていこうと思います。
れむれむ そもそも小さい頃から、私の中には「本を作りたい」という強い欲求がありましたね。カバーが別売りで温めると糊がつく、みたいな製本機がありまして……。
――― ホットメルト製本機ですね。この前、卒論の製本に使いました。
れむれむ そうそう。それで私は、10歳の頃から本を作っていました。
――― ええっ! 10歳ですか!?
れむれむ Twitterでは9歳を名乗っているのでアレなんですけど(笑)。小説を書きはじめたときから「本」という形式に憧れがありました。中学卒業くらいのときには、自分の作った本を周りの人に配っていましたね。
――― ひえー。文芸部の会誌、とかではなく……?
れむれむ そうですね。「作ってきたけど、いる?」みたいな感じで。今考えるとめちゃくちゃ危ないワナビなんですけど(笑)。同人誌を作ろうとしたのはもう少し後でした。実際に小説を書いて、イベントに出てみようと。ところが、地元の徳島には本当に何も無いわけですよ。
――― なるほど。同人誌を出そうにも、出す場所が無いと。
れむれむ 「コミケというものがあるらしい」とはその流れで認識しました。「なのは完売」とかその辺りだったかな。同時に、紙の本を作るにはものすごくお金がかかるらしい、と勉強しまして。オンデマンド印刷がまだ普及期だったせいか、調べ方が悪かったのかもしれないんですけど、最低30万から40万ほど掛かると言われて……。
――― 30万円ですか! 今とは数字が一桁違いますね……。
れむれむ そうですね。ところが私は行動力の化身だったので、地元の印刷所さんに駆け込んで「いくらかかりますか」とか聞きに行くわけですよ。だけど、オフセット印刷機ですし50万から100万と言われて、これは無理だなと思いましたね。
――― 学生にはとても払えない金額ですね(笑)
れむれむ 「趣味で小説本は作れない」というのをそこで認識しましたね。ただ、当時はちょうど同人ノベルゲームの全盛期でして。『ひぐらしのなく頃に』や『Fate/stay night』(編注:当初は同人作品として企画された)が出たりと、とにかくアツかったわけですよ。そしてノベルゲームというのは、最終的にCDに焼いて売るわけですね。
――― なるほど! 本は無理でも、CDなら行けると。
れむれむ そうですね。これなら何とかなるのでは……と。だけど結局「どうやらノベルゲームにはイラストがいるらしい」と気付きまして。12歳の頃に「小説をやるかマンガをやるか選べ」と自分に課して、その頃には「小説を書く人間になる」と決めていたので、私にイラストは描けません。また、絵が上手な中学時代からの友人もいません。
――― な、なるほど……。
れむれむ またそこで行き詰まりまして。「どうしようかな」と進めないまま、無力にダラダラと青春時代を過ごすことになりました。浴びるようにアニメを見ていたのはその時期でしたね。百合を感じたものだと『ローゼンメイデン』や『苺ましまろ』、もちろん『マリみて』も観ていました。
佐藤友哉作品との出会い
――― 当時、小説作品としてはどういうものを読まれていたのですか?
れむれむ リアルタイムで最初に触れたライトノベルは高橋弥七郎先生の『灼眼のシャナ』でした。ボーイミーツガールではあるけど、伝奇モノというか、日常と隣合わせにある非日常という世界観に惹かれましたね。それまでずっと古めのミステリやSFを読んでいたので、ライトノベルという言葉もそこで知りました。
――― その後もライトノベルは継続して読まれたのでしょうか?
れむれむ 少し悲しい話になりますが、学園モノや青春モノに乗れませんでした。当時から共同体だとか、マジョリティに対しての違和感はありましたね。純粋に生意気だった可能性もありますけど、そういうふうには生きられないと感じて何となく疎外感を抱いていました。佐藤友哉作品に触れたのはちょうどその頃でしたね。
――― よく「好きな作家」として佐藤先生のお名前を挙げられています。具体的にはどういうものを読まれていたのですか?
れむれむ 『ファウスト Vol.7』の特集で掲載された『青酸クリームソーダ』が印象的でした。「こんなに面白い小説があるのか」という驚きがありましたね。「入門編」なので、その後に触れた「鏡家サーガ」の他作品がさらに面白くて(笑)。現状に対して内心何らかの劇的な変化を求めていたり、このまま何者にもなれないのではないかという激しい焦りを抱えていたり、ひどく屈折した自意識を持つ主人公が先生の作品では赤裸々に描かれていました。当時の私には「10代のどうしようもない痛(イタ)さをこんなふうに小説で語ってもいいんだ!」とカルチャーショックで。
――― 佐藤先生をはじめとする「ファウスト系」の作家たちは、ライトノベルと文芸を横断して活動されていたと聞きます。今の感覚からすると、何をしているのかわからないところがあるかもしれませんね。
れむれむ この時代は桜庭一樹先生のように、ライトノベル方面で活躍される作家さんが純文学でも評価されていった流れがありましたよね。(『ファウスト』がライトノベル雑誌かは諸説あるものの)舞城王太郎先生と佐藤友哉先生の御二人は文芸の世界でも活躍されています。今は最適化が進んで、横断的に書ける作家さんが減ってしまった。
――― とすると、『零合』の「百合であること以外ノンジャンル」という編集方針には、『ファウスト』から影響を受けた部分があるのでしょうか?
れむれむ そうですね。ライトノベルと文芸を繋いでいた何かは一度ズタズタに分断された末、今では高い壁が築かれているとでもいうか……。百合小説はそういった引力もとい斥力を最も受けやすいジャンルの一つに思えます。『零合』はそこの垣根をいま一度壊していきたい気持ちがあります。文芸だ、ライトノベルだ、で喧嘩をはじめてしまうと、ただでさえ小さいパイがさらに小さくなるのでシンプルに「面白ければ載せる」と。
――― なるほど。言われてみると、れむれむ先生自身の作品には「ファウスト系」からの影響を感じますね。
れむれむ その点は今も変わらないですが、興味のベクトルが『灼眼のシャナ』で言う「歩いて行けない隣」から、より現実と地続きな「日常に侵食する非日常」へシフトしていく時期でした。アニメを通って小説に戻ったので『ファウスト』的に言えばモロに「新伝綺」の作家なんですよね(笑)。逆に、完全なファンタジー世界には苦手意識があって、これは単に王道RPGに一切触れていないためですが、そのせいで近年の異世界モノを受け止める素養がなく……。昔も今も「明確な舞台・ロケ地」が無い話は書けません。
ノベルゲーム制作での挫折
れむれむ 話を元に戻します。当時の私はノベルゲーム制作に踏み切ることができず、ダラダラと青春時代を過ごしていました。
――― イラストレーターが見つからない、というお話でしたね。
れむれむ そうですね。実はこのとき、とある方からイラストレーターさんを紹介していただいて、ノベルゲームのイラストを描いてもらったことがあるんですよ。だけどティザービジュアルみたいなものを公開したあと、音信不通になりまして……。
――― あー……。
れむれむ 一枚だけイラストが残ったけど、何も出ないまま時が流れてしまいました。で、ここから急展開なんですけど、ニコニコ動画に2年以上も無音の動画を毎週アップするだけの時代が続くんですね。
――― 小説でもノベルゲームでもなくニコニコ動画……急展開ですね。ちなみに「無音の動画」というのは何ですか?
れむれむ 「SZBH方式」で検索してほしいんですけど、そういう動画があったんですよ。当時『さよなら絶望放送』というアニラジがあって、最終回までずっと投稿していました。直接それきっかけではないのですが、同時期にイラストレーターさんと知り合って、「ゲーム作りませんか」という流れに……。
――― ニコニコ動画を経由してイラストレーターさんと知り合いに……。人生何があるかわかりませんね。
れむれむ あの頃の徳島では、絵と音と詩の才能と身長がハチ(米津玄師)さんに配分されていたので……はさておき、ゲーム制作が始まったのが2011年春のことでした。ところが2012年の初頭くらいにTYPE-MOONさんの『魔法使いの夜』の体験版が公開されまして、「これは負けていられないぞ」と。
――― 対抗意識を燃やしたわけですね。ところで『魔法使いの夜』は商業作品だと思うのですが……。
れむれむ そこはあまり意識しませんでしたね。商業とか同人とかいう線引きをしたくありませんでした。とにかく良いモノを作りたい、負けたくない、みたいなクオリティ意識が強くて。仕事でそういう現場にいたのもありますが、ノベルゲームでもアニメみたいなモノ、映画みたいなモノを作りたいという気持ちがありましたし、演出に凝ったものを作ろうという意欲がありました。ただ、そうなるとイラストレーターさんにも負担が掛かりますし、制作が暗礁に乗り上げてしまうことが増えて……。
――― ノベルゲームという媒体に、ある種の限界を感じた。
れむれむ そうですね。今ほどではありませんが仕事も忙しくて、いろいろ頑張りはしたんですけど……。『まほよ』の演出(特に廃遊園地のシーン)は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のヤシマ作戦を観てああなったらしいんですよね。奈須きのこ先生が「ビームを撃ちたい!」と。
一方、私はビームを撃てないまま『ヱヴァQ』と『叛逆の物語』にやられて放心状態になってしまい……。「もうこれ(ゲーム)では(表現したいことは)無理だな……」という巨大な焦燥感で死にそうなまま2014年のお正月を迎えたのを覚えています。
――― ……なるほど。よくわかりませんが、とにかくノベルゲーム制作からは一旦離れていくわけですね。
「殺伐百合」にたどり着く
れむれむ 当時は「百合」に関してもまだ迷いがありましたね。制作していたノベルゲームは全三部作だったんですけど、一作目はボーイミーツガールにして、二作目以降はガールミーツガールを描いていく企画でした。「百合ゲーム」だと間口が狭い時代だったので、そういう構成にならざるを得なくて。ただ、同人でやれることには限界がありますし、クオリティに対するプレッシャーも重なって……。仕事も忙しいし、創作も苦しい。そういう時期に『悪魔のリドル』のテレビアニメ版と出会いました。
――― 高河ゆん先生と南方純先生が原作・作画で執筆された作品ですね。『殺伐百合アンソロジー Edge of Lilies』のカバーイラストは両先生が描かれています。
れむれむ 創作に行き詰まっていたときに、クリエイターの方のこだわり……「癖」(ヘキ)が強い作品をモロに食らって。こういうものを作るためにはどうすればいいんだろう、と前向きに考えられるようになりましたね。それから集団制作のゲームから少し離れて、ゲームの前日譚のような感じで小説を書くようになりました。
――― 2015年冬コミの『南雲栞の回顧録』ですね。
れむれむ そうですね。最初は創作に戻るためのリハビリとして書いたんですけど、そのうちゲーム制作の時間が取れなくなってしまって。同人ゲームの島なのに小説を出している、という状態になりました。2013年の夏からコミケには出続けていたので、自然とコミケを目指して小説を書いていく感じでしたね。
――― ノベルゲーム制作から離れ、小説を書く楽しさに改めて気付いたわけですね。
れむれむ 概ねそんな感じです。小説なら「(絵や音など)リソースを考えず好き放題できる」と。それでも2017年あたりまでは辛かったですね。プライベートの不幸も重なり、本当に表現したいものがあったのに(ゲームではなく)別の形でしか吐き出せない、という時期が続いて、心も体もボロボロでした……。そこが吹っ切れたのが、2018年夏コミで出した『璃菟樹の回顧録』でした。
――― 『璃菟樹』は二段組の260ページで、相当分量がありますよね。
れむれむ 前年夏に書き上がらず、また懲役2週間(コミケ前の缶詰作業)をやって、結果として個人誌では一番多くの方に読まれ、小説島に移って翌年末にはいわゆる「壁サークル」にもなりました。自分の内にある「書きたい小説」に手が届いたというか、「百合」を表現できた感覚がありましたね。直後からコロナ禍に入ったのは本当に悔しかったですが……。
――― ところで、「殺伐百合」という単語に出会われたのはいつぐらいの時期でしたか?
れむれむ 実際に書かれている方をイベントで知ったのは2019年の5月コミティアでしたね。
――― なるほど。意外と最近ですね。
れむれむ そうですね。橘こっとんさんが『おねロリチェキスト』という本を発行されていて。
2022年に上梓された『蝶と帝国』のコミカライズも始まった南木義隆先生の『月と怪物』(同人誌掲載時は『灰と怪物』)も話題になっていた頃です。
私はまだ「ハードボイルドガールズラブ」とか一人で名乗っていましたが、「殺伐百合」概念と再び出会って「自分が書いていたのはこれだったのか」ということに気付いて。当時の「殺伐百合」はネット小説が中心でしたので、紙の本でアンソロジーを作れると楽しいのでは、と思い始めたのが2019年末くらいでした。
――― 2021年刊行の『殺伐百合アンソロジー Edge of Lilies』ですね。
れむれむ 『殺伐百合アンソロジー』は関わる人数も段違いで、憧れの先生方にもご参加いただき「絶対に頓挫させるわけにはいかない」と思い入れもありました。あくまで同人誌で、零合舎とは別軸だったのですが……貴重な経験がその後の指針になったのも確かです。ここまで、謎のインタビューを読まれた方を筆頭に、今後も無限回「誰?」と私は感想を突きつけられるのだと思いますが、あの時の寄稿者・読者の方々は「ワシが育てた、しらんけど」と後方古参面してくれると報われます。
「百合」とは?
――― 長時間にわたるインタビューも終わりが近づいてきました。最後は恒例の質問で締めたいと思います。
れむれむ はい。
――― それでは最後の質問です。れむれむさんにとって「百合」とは何ですか?
れむれむ なるほど。そうですね……。
――― ちなみに紺先生は「希望」と答えられました。
れむれむ 「希望」ですか。若干そこに通じるところはあるんですけど、自分にとっての百合は……「実家」です。
――― 実家! その心は。
れむれむ 現実の私に安心できる実家は結局一度もなくて。なので、あくまでも比喩ですが、最終的に落ち着く場所、流れ着く場所だと思うんですよ。自分自身、「百合」を書こうとして書いているつもりはないんですけど、何を書いてもそこに落ち着いてしまう。作品自体が安心安全ではないんですけど、創作に触れたり自ら描こうとするときに、自然と帰着するようなところ。空想に逃げ込んで、その果てで好きになったものが「百合」だったのかなと。
――― なるほど。これまでのインタビューと重なるお話ですね。
れむれむ もちろん、皆それぞれの「実家」があるじゃないですか。私の場合はそれが「殺伐百合」だったというだけで。その実家が重なったところに、何かジャンルとしての名前が付くのかなと思います。私の場合、「実家」のような安心感が得られる場所は「百合」でした。
――― 実家の存在に気付いたのは2019年だけど、根底には同じものが流れていたわけですね。
れむれむ そうですね。言われてみれば「殺伐百合」を書いてきたな、という感覚があったから、そこに合流しようとしたというだけのことです。だからこそ「実家」に恩返しをするためにアンソロジーを作り、その延長線上で『零合』という場を必死にこしらえたのかなと思います。
――― なるほど! キレイにお話を回収できたところで、インタビューを終わりにしたいと思います。本日はどうもありがとうございました!
れむれむ ありがとうございました。
取材: 銀糸鳥、ネプヨナ、ノーラ
構成: 銀糸鳥
※取材終了後、れむれむ先生から「一つ大事なことを話し忘れたので」と追伸をいただきましたので掲載します。
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