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命を守ること、その裏側

久しぶりに晴れたので近所の素敵な小川を眺めながらボーッとベンチに座っていた。すると公園の管理人が近づいてきた。ロックダウンルールの下では外でのエクササイズは許されている。ただウォーキングは良いけどベンチに座り続けるのはダメなんだよ。丁寧に、そして同情混じりのやるせない口調でそう言われた。

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心の中ではそんなバカなことあるか!と叫んだがイギリスという異国における移民という弱い立場なのでやむなく立ち去った。世のウォーキング信者の歓喜の声とピクニック信者の嘆きの声が聞こえてくる。どうやら外のベンチに座り続けることは不要不急のことらしい。

不要不急

急に身近になったこの四字熟語を英語に訳すとしたら何だろうか?それはおそらくnon-essentialだろう。人々の命を守るために必要不可欠な(essential)仕事は形を変えつつも続けることが許され、不要不急な(non-essential)仕事は一時的に幕を下ろすように言われている。

ほんの数十年前には一部の人々の命を奪っても問題がないとされていたことを考えると、たとえそこにコロナがあったとしても、素晴らしい時代になった。「生きている」ことが最重要なのだから。

もちろんそれは簡単に成し遂げられることではなく医療や経済、教育といった様々な業界のバランスをとる努力が必要となる。それでも全ての命を尊重しようとする世界的に共通の姿勢は、皮肉ではなく本当に素晴らしい目標だと断言できる。

しかし疑問が全くないというとそれも違う。「生きている」に辿り着こうとすることそれ自体は美しいと言えても、それに向けてなされてきた努力は正しいものだったのか?このエッセイはあのバランスを取ることそれ自体を問い直すために書かれている。

そのため飲食ないし医療の現場レベルの声にもっと耳を傾けるべきだといった特定のサイドに与することを目指しているのではない。答えを出すためのものではない。

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ベンチに座ることができなくなったので、公園内にあるお店を眺めながらふらふら歩いていた。MERRY CHRISTMAS

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あれ、もう1月の後半だよな。あるお店の前でそう思っては立ち止まってしまった。その次にこのお店で今働いていたはずの人がどこに行ってしまったのかを、何をしているのかを想像してしまった。

なぜ彼ら・彼女らはここにいないのか?
それは制限されているからだ。自由を奪われているからだ。

誰に?
政府に。

なぜ?
その自由は必要不可欠(essential)ではないから。不要不急だから。

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医療経済か、という話だろう。

国民の行動を制限しないと感染は拡大して医療は崩壊、果てには多くの患者が命を落としてしまう。生きるためには行動制限が必須なのだ。
僅かな協力金でお店を閉めては収入がなくなり困窮して死んでしまう。生きるためには極度な行動制限をせずにお店を回し続けねばならないのだ。

どちらの意見も「生きている」を究極目的としているという点で共通の主張だ。そこに違いがあるとすればそれはその目的に辿り着くためのプロセスだ。つまり「生きようとする」方法が通常の医療制度を維持するか経済を回すかで異なるのである。

どの国でも政府はその「生きようとする」方法に優先順位をつけて政策を決めている。ある国は医療を優先して強烈なロックダウンを敷き、またある国は経済を優先してパンデミック前の生活を続けようとする。

どちらもそれぞれの論理があり一方が全く馬鹿げた話だと言うことは決してできない。緻密な専門的知見に基づいた建設的な議論ではない限り、その2つの意見の衝突は水掛け論になってしまうだろう。

しかし僕には公共衛生に関する専門的知識も財政・金融に関する専門的知識もない。そこで一歩引いて、両者が追求しようとしている「生きている」と「生きようとする」を突き詰めてみたい。

一歩引いて、と言ったが「どっちを優先すべきか」論の先に行くために二、三歩下がってみよう。二、三歩下がって助走をつけてから一歩進もう。

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数十年前は「生きている」に優先順位が設けられていた。誰が、あるいはどの集団が「生きている」べきか。それが判断されていた。女性より男性、黒人より白人、同性愛者より異性愛者、といったように。

しかし長い年月をかけてその優先順位が徐々に、まだ根強く残っているが、打ち壊されてきた。なぜか?それは誰にもその様な優先順位をつける正統性がないということが明らかになったから。男性より女性、白人より黒人といったように優先順位が変わったのではなく、そのようなランク付けそのものが疑問視された。もはや「生きている」への順位付けはない。

パンデミック前を思い出してみよう。「個性」「自分の生き方」「好きなことを仕事に」といったフレーズで溢れていた。人々は自らが定めた様に「生きようとする」方法を決めることができ、誰もそれに文句を言うべきではないとされていた。そして「生きようとする」方法は異なれど、「生きている」に直結している点で誰もが一緒だった。

パンデミック以後を思い返してみよう。「ソーシャル・ディスタンス」「ステイ・ホーム」「マスク」といったフレーズで溢れている。誰もが「生きている」を必死に模索していた。しかしもはやあらゆる「生きようとする」方法が自由に掲げられることはない。ある生き方が認められる一方でその他は制限・禁止される。

あのMERRY CHRISTMASを飾ったアパレルショップを思い出してみよう。その店で働く人々の「服を売る」という「生きようとする」は制限された。なぜならそれは必要不可欠(essential)ではないから。不要不急だから。一つの「生きようとする」あり方が制限されていた。

経済よりも医療、小劇場よりも小売店、アパレルより食料品店

より より より 。

でも、人間にとって何が必要不可欠なのかを誰が決めることができるのか?

科学的に立証されているから許容されるべきで、非科学的なデマを叫ぶな。問題は誰が、ではなくどのような結果がもたらされるかだ。そう言われるかもしれない。

もちろん科学を否定するわけではない。コロナなんてものはない、と言っているわけではない。科学的に対処することをパタリとやめようと言っているわけでもない。それこそ愚の骨頂だろう。

しかしいくら科学とはいえ、科学(的権力)が人々の「生きようとする」をランク付けしてその下位にあるものを禁止・制限することが許されて良いのだろうか?それともある程度までなら許されることなのか?

社会にとって最良の人間とは?という問いを出発点に、数十年前に「生きている」のランク付けをしてユダヤ人や同性愛者や「障害者」を殺した人々は、そのようなことを問われた際に優生学という科学を持ち出しただろう。全く同じケースが繰り返されているとは決して言わないが、それでも何かを感じ取ることはできないだろうか?

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この「生きようとする」のランク付けはもはや止められないだろう。これに対して人々が考えなければならないのは、国ごとに異なるランク付けのどれが満点に近かったのかという問いだけではない。そもそもそのようなランク付けという行為は正しかったのか、正統な行為だったのか。この問いを決して忘れてはならないのではないか?

高得点を見極めることはコロナが落ち着いてからでないと判断できないだろう。しかしランク付けそのものに正統性があるのかは今日からでも問うことができる。それにも関わらず新聞社の記事レベルでも目にすることはない。誰かがより推奨された「生きようとする」を決めているという事態に加えてこれもまた、恐ろしい状況ではないだろうか?

あのアパレルショップはMERRY CHRISTMASをHAPPY NEW YEARに変えることができなかった。仕方ないのだろうか?コロナだから?

誰を優先するべきかだけではなく、誰かを優先して良いのかも問い続けよう。もちろん問いを改悪して差別に遭う人々を優先的に扱わなくても良いという結論に走る危険性もある。ただそれは問いそのものの欠陥を示すものではない。問いそのものを失ってはいけない。


2021年1月24日 文責:D

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