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【2019駒場祭特集】ジンブンアトラス編④-東京オリンピック 幻のマラソンコース

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出典:https://tokyo2020.org/jp/news/notice/20180531-01.html

 みなさん、またお目にかかることができて光栄です。
 2019駒場祭のアトラス最終回は、東京オリンピックのマラソンコース。ご存知の通り幻に終わってしまったものですが、逆に言えばこの計画は「実行されないこと」によって、歴史的なテクストとしての特別な存在感を獲得したとも言えるのです。
 わたしたちはこの地図から、あるいはこの線の下に広がる東京という都市の地層から見えてくることを、読み取らないわけにはいきません。もちろん、この「わたしたち」にあなたも含まれているのだということは、もうお分かりのはずです。

長距離走者の記憶 -伊澤(表象文化論) 

 つゆと消えてしまった2020年東京オリンピックのマラソンコースですが、その残された地図で遊んでみるために、いちど時を遡って55年前、1964年東京オリンピックのマラソンを振り返ってみることにしましょう
 さあ、1964年10月21日、スタートは変わらず国立競技場、ところがここからまずは新宿へ行くと、甲州街道へ出て、それからひたすら西へ西へむかう、飛田給の調布飛行場跡に着いたら折り返し、復路はいま来た道をまっすぐと行儀よく帰ります。
 一言であらわすと、あまり面白みのない。このとき世界で初めてフルマラソンの生中継が行われたそうですが、白黒テレビで見ていても、円谷幸吉が2番目に競技場に戻ってきた瞬間を除いては、変化の少ない景色が続いていたに違いありません。それに比べれば2020のほうは江戸東京の名所観光をバッチリおさえて、フォトジェニックな舞台が整っています。
 どこからこの違いが生まれてくるのかを考えてみましょう。まずもって64年のオリンピックは、東京の開発と切り離して考えることはできません。高速道路と新幹線が開通し、街は鉄筋コンクリートで埋め尽くされていきます。盛り場は戦前の浅草や銀座から新宿へと移っていき、こうした諸々の変化は、概して東京を「東から西へ」と拡張していったといえるでしょう。それは言い換えれば、永井荷風が描いたような水の街としての江戸から、山の手の東京へと変貌していく過程でもありました。私鉄は西側の郊外へと延びてゆき、沿線には都心の過密を逃れて数多のニュータウンや団地が作られていきます。調布市は当時全国でも有数の人口増加率を誇っていました。私たちのよく知る今の東京の原型は、このとき作られたインフラが文字通り基盤になっているというわけです。以上を踏まえれば、マラソンコースが西へ西へと向かっていくことに、象徴的な意味を感じずにはいられません。
 さあ、現代へと戻ってくる前に、もう少しだけ歴史を巻き戻してみましょう。ときは1943年10月21日、奇しくも21年後のマラソンと同じ日付に日本放送協会が生中継していたのは、かの有名な「出陣学徒壮行会」。(今年の大河ドラマでも取り上げられたそうですが、)その会場というのは、明治神宮外苑競技場、そう、他でもない国立競技場の前身だったのです。「学徒」たちが向かったのは西も西、調布を遥かに越える海の向こう側でした。このときのちの折り返し地点のほど近くにあったのは、調布飛行場。飛行第244戦隊は、ここを本拠に本土防衛に備えていました。2年後には、彼らは沖縄で特攻作戦に参加することになります。
 明治神宮外苑競技場と、調布飛行場。両者を結ぶ甲州街道については、またさらに300年ほど遡らねばなりません。
 江戸幕府は江戸と各地を結ぶ街道の整備を行いますが、甲州街道もそのひとつ。これには逸話があって、もし敵に江戸を占領されたら、将軍は甲府に一旦撤退してから、譜代の配下を集め甲州街道を上って江戸城を奪還するという想定をしていたとか。これも幕府の「本土防衛」作戦だったというのも、あながち間違いではないのかもしれません。
 太田道灌から徳川家の治世に至るまで、江戸の開発はまずもって治水だったといって良いでしょう。広すぎる関東平野でおこる洪水の被害を減らすために、利根川をはじめ大規模な工事が度々行われました。「水の江戸」とはこの点からしても正鵠を射る表現で、実際上野や浅草、日本橋を歩けば、川や沼あるいは堀といった形で水の存在を感じずにはいられない。
 こうした江戸の歴史を、高度経済成長期の開発は、良くも悪くも、コンクリートに埋めていきました。新しい競技場が作られ、甲州街道は主要な幹線道路となり、東京の西には住宅地が広がっていくのでした。
 さあ、ようやく2020年に戻ってくる準備ができました。調布は近頃ラグビーW杯でも盛り上がったように、折り返し地点跡のすぐ隣に味の素スタジアムを持ち、再開発も順調に進んでいるようです。ただ、マラソンコースはやはり東側、東京の「歴史」を味わうものとなっています。わざわざ「」をつけたのは、それはなんだか脱臭された、みなのよく知る「東京的なもの」を再認するための歴史だからです。浅草、歌舞伎座、東京タワー、東京駅に皇居。新しい国立競技場は、観光地東京の記号的な歴史の方へ結びつこうとしているようです。しかしこの観光順路は、偶然かはいざ知らず、外堀や隅田川など東京の水辺をたどるものとなっているのも事実です。そこにまた、1964年のコースに隠されていたような、場所の不気味な相関性が浮かび上がってくるかもしれません。
 水には、特に都市のなかの水には、豊かな時間性があります。古来の親水、治水の努力、それに人々の交通と、衣食住とが、密接に結びつきあっている。それだけでなく、水は私たちの感知しようのない過去さえ有しているのかもしれません。ノアの洪水、シン・ゴジラ、クレオパトラの飲んだワイン、、、津波や近頃の水害は記憶に新しいですが、忘れようとしていた「水」がふたたび私たちの生活の場面に姿を現そうとしているとすれば、そこから目を背けずにいたいものです。

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楠戸義昭『日本の歴史街道』, 三修社, 2006. 
司馬遼太郎『街道をゆく(1)』, 朝日新聞出版, 2008.
吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』, 河出文庫, 2008.
和佐徹哉,「東京五輪マラソン折り返し点 50年経て再び熱気を待つ」, NIKKEI STYLE, 2016年7月7日, https://style.nikkei.com/article/DGXMZO04163530Y6A620C1000000/
Roy Tomizawa, "Tobitakyu, Chofu: Turning Point in the 1964 Olympic Marathon", The Olympians, June 3, 2019, https://theolympians.co/2019/06/03/tobitakyu-chofu-turning-point-in-the-1964-olympic-marathon/

「伝統」と空間、そして天皇 -渡部(日本史学)

 マラソンコースが直線的でないのは,浅草寺や東京タワーなど歴史的伝統を持つ(とされる)場所を経由するため。この地図から浮かび上がるのは,「伝統の象徴」が皇居を中心とする空間に同心円状に生成されているということだ。

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