つながれない、はその先を夢見る
では、なぜ、例えば人は「寂しい」と言う言葉が理解できるのだろうか?
自分以外の人の「寂しい」をじかに知ることはないのに
自分の 寂しい の感情を「これは寂しいっていうことなんだ」と
どうしてわかってるんだろう?
私たちは何を個別の体験とし、
何を共有しているのだろうか?
以前いろんな人と対話するなかでよく壁のように立ちはだかるのが
「人のことはわからない」
という言葉だった。
それは確かに一つの真実。
人のことはわからない。
私が、簡単にわかった気になったり、ふりをしたりする、
そういう態度に対して、いさめるおもいもあったのだろう。
その人たちにとっては気づきだったのかもしれない。
前の記事「つながっていないがデフォルト」に書いたのは、
つながっていない、ということに無感覚な状態だった。
「人のことはわからない」というのは、「つながっていない」ということに自覚的なのだから、その無自覚で目線が合わないかんじ、よりももっと「つながっていないがデフォルト」と思っている私と共有できるものがある。けれども、そこにも大きな溝があって、締め出されたような痛みを覚えた。
痛みは「人のことはわからない」ということが、結論で、その先の対話が続かなくなってしまうことだった。その結論は、人と人は分断されていて分かり合えない、ということになってしまう。
「つながれない」ということは、「つながっている」と対峙して、結論となって、前提となる。 つながるはずだという幻想を捨てて、自分の道をいけるなら、それはひとつの指標にもなる。
大切なその人の杖になる。
それを人がとやかく言えるものではない。
ただ、
私は、そっと、そこともたもとを分けていこうと思った。
私はそこを結論ではなく、出発点にしたいのだ。
確かに、今繋がっていないという事実認識は現実を直視するために必要なことだけれども、
それでもきっと人はつながることを求め続けるだろう、と。
私だけではなく、きっと すべての人はそれを求めている。
そこには、かすかだけれども、予感があった。
例えば、寂しい、という感情、いや、感情ではなくて言葉。
まさにつながれない、その痛みはごく個人的なもので、誰にもわからない。
わからないけれども、なぜか、伝わる、寂しいという言葉。
そこにある普遍的な、寂しい、という本質的なものの意味があるから。
そこから、そっと、耳を澄ませて、わからないものを手繰り寄せてわかろうとするしぐさ。
そのしぐさを諦めてはいけない。
また、振り出しに戻って、分かった気になる、繋がった気になる、その轍に片輪をまた突っ込みながらも、
理解したいと思う仕草を見失ったら、
きっと世界はバラけていってしまうだろう。
だから「つながっていない」は今のところ標準仕様だけれども、
それは結論じゃない。
もしかしたら、つながるかどうか、ということ以上に
自分の立場でないものを理解しようとするしぐさによって、未来は動くのかもしれない。
個別のものと、共有しうるもの。
感覚と身体を通して、その間に世界を生み出していく。
この捉え方は、「音楽を描く」 のベースになっていくことになる。
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愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!