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音楽はもともと誰かの体験だった(音楽の学び方の方向をかえるすすめ)

音楽はもともと誰かの体験だった

音楽っていろいろあります。
音楽って何か、と問い始めるときりがないけれど、
一つはっきりしているのは、
その曲や演奏、たとえば私、私の心を動かしてくれるその歌は
私のところに届くまでに、とっても多様な人の”体験”があったはず、ということ。

そして、
その歌を伝える人の
それからきく私の
音を編む所作と、
音を選ぶ所作と、
その手を伸ばす先にある音楽というフィールド。

音楽、というフィールド


その歌のその根は、長い時間を経てできた「音楽」というフィールドにあって、そこに歌が生まれる可能性があるということ。そのフィールドでは、いろんなひとの実感や体験が上書きされたものでできていること。
そして、今なっているその歌は、そのフィールドから生まれ、誰かの個人的な体験と深く結びついて生まれてきている、ということ。

作曲をするということ、演奏するということは個人的な体験なのにもかかわらず共有することができるのは、その「音楽」というフィールドがあるから。
この世のどこにも存在しないのに確かに存在しているそのフィールド、体験と情報の海。
楽譜というのは、予め決められた法則ではなくて、体験の蓄積だし、共有の道標です。

音楽を学ぶとしたら

その音楽フィールドも、そこにある道標の楽譜も、一日でできたのではありません。
言葉にまだ出会っていない赤ちゃんは、世界を音楽的に理解している、という説を読んだことがあります。それに似て、音楽の原始的な体験は、そもそもだれのこころのうちにもあるような素朴な体験だったはず。

だから、その「素朴に感じる体験」から音楽が芽吹いたその順のとおりに、1人の人も「素朴に感じる体験」から音楽をはじめてみる、というのを
せっかく音楽をするのだったら、やってみたらいいと思います。
自分の演奏を「できた結果」に合わせて底に向かっていくのではなくて、素朴に感じることができる素朴な所作から、ひだを重ねるようにして自分の中の音楽を育てていく、というプロセスを大事にした方法をとってみる。

そのためには今持っている、固定概念を手放すことも必要なのかもしれないです。


音楽に苦手意識のある人に

今まで、多くの場面でそういうプロセスを大切にできなかったのは、
音楽教育の問題だと、私は思います。

いわゆる
リズム感を鍛える、とか音感を鍛える、という発想や、既に楽曲の完成型は自分の外にあって、それをいかにコピーするか、という方法で演奏力を鍛える方法。

それとは
別の学習の方法を提案しているのが
utena music fieldです。


 音楽を描く


utena music fieldでは、音楽の言葉で伝えようのないところを、動線に置き換えて伝える、という方法を使っています。(utena drawingと呼んでいます。)
音楽、を描いてみる、という方法は誰でも思いつきそうなもんだとおもうのですね、でも、やりはじめてこの動線に導かれて、どんどんとその深さと困難さと、喜びと、可能性が見えてきました。音楽の深みに似て、また、人のありようの深みに相応して、動線から見えてくる情報もまた伝える人間と伝える音楽の深さに対応して変化します。

それは、その「音楽」っていうフィールドから、情報を取り出していく作業だし、同時に自分の中から体験を引き出してくる作業でもある、でもそれは別のことではないんです。
そう、上に書いたように、「音楽」フィールドはもともとは体験の蓄積だから、決して自分の体験とは質の違うものをくっつけようとするわけではないというふうに感じられれば、です。
実感や感じることの中には誰でも音楽的な部分があります。
もし、自分にはない、と思う人がいるとしたら、これはまだもしかしたら、本人に気づかれてないかもしれないし、わかってるけどまだその手足の動かし方を知らないのかもしれない、と私はよく感じることがあります。
utena drawingが上手くちゃんと理にかなった方法で活用できたときには、その人が固定化していた体験を溶かし、動的なものにかえていってるのが目の当たりに見えてきます。これは本当に私としても嬉しい体験。

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