8/22 繰り返し忘れることの恩恵
コンサートのあとの生徒の楽譜読めなさ
生徒たちのコンサートは大成功でした。
それは生徒たちの反応を見ても、保護者さんの様子を見ても、手応えをすごく感じます。コンサートのあとも曲を練習し続けて、連弾の他のパートまでやっちゃってる子とか、緩急思いのままになったぜ、と報告してくる子とか。
ただ、皆さんの喜びの裏で、すでに私は知っていました。
一曲集中で練習してきた彼らが、文盲になっていることを。
音楽は楽譜ってもんがあって、これも学ばなきゃならないってことがすっかり彼らのあたまになくなってることを。これまでも発表会のたびに経験してきた試練です。
あー。冷水を浴びせるようですが、この現実をみてみろ。先生はもうコンサートの興奮のそこにはいないのだよ。
ただ、想定内だったこの自体、この頃の私は、後退ではなくてむしろとっても良いことだと捉えるようになってきてもいるので、ムフフと思いつつレッスンしてます。だからこそ思いっきりコンサートに打ち込んでもらえたんだとも思います。
なぜなら、「忘れる」ことにはまたたくさんの滋養があり、恩恵があるからです、やっとやっと、そういうことがわかってきた半世紀もとうにすぎたお年ごろです。
忘れるから、深まる
忘れるのはいいことです。
いつも新鮮な気持ちで初歩からやり始められる(やり直す、ではなく。)から。
たとえば、一度スケールとカデンツを4種類くらいの調は弾けてた生徒。久しぶりにやってみると、できない。それは、体験と言えるレベルまでまだ落とし込めていなかったということです。身体化というとこまでは行ってなかった。忘れてくれるから、刷り込み具合がわかります。
それに、もう知っている、と思っていることはそれ以上深めるのが難しものですが、あやや、実はわかってなかった、となって、もう一度やりなおしてみよう、となると、理解の度合いを深めていくチャンスでもあります。
だから、おんなじように教えてるようにしながら、もう一つスパイスを加えながらやっていきます。たとえば、ドミナントを前は基本形だったのをセブンスをいれるとか、ただ弾くのではなくて、3度下げた自然短音階で弾いてみるとか。そこから和声・旋律へと音階の変化を各調でやってみるとか。
忘れたことは、同じことをやって、同じようにできるようになる、ではなくて、「忘れる」を通過したら、思い出す+更に深める の繰り返しで肉付けしていく。
そのほうが刺激的で楽しいとおもうんですね。
私自身が面白くないことは頭に入らないし、続かない性分なので、ただ、今までのを思い出させるなんてレッスンは退屈で死んでしまいそうです。
そういうことがしたくて、手ぐすね引いて待っていました。コンサートが終わるのを。
多分私がこういう質なので、生徒も連弾の他のパートやってみるとか、緩急かえてみるとか、コンサート終わってももう一捻り、遊び込んできてくれるんだと思います。
音楽にはここまでっていうのがありません。 だからいつまでも遊んでいられます。
私が何度忘れてもまた、やってみるとそこには飽きない要素がたくさんあるのが音楽。
…
写真は今日の大人さんのレッスンのときのドローイングです。
追記
書き忘れていました。楽譜が読めないレベルまで忘れるのは低学年の生徒。高学年になると逆に、コンサート終わってみたら、前使っていたテキストが物足りなくなっていたり、いつの間にか移調して弾くのが容易になっていたりしてるので、繰り返し忘れながら、身につけていったものがいつか「使える」ツールになることを、彼らは証明してくれてるんだなあと嬉しくなりました。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!