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余白をはぐくむ

片付け症候群

ここ二ヶ月ほど、なぜだかやたらと整理整頓をしています。
片付けを患っている。

noteつけんといかんのやないの〜とか、ほかにもっとやるべきことことあるでしょとか、いろいろ水を向けてみても、なぜか苦手な整理整頓を始めてしまった。
衝動ってやつ。

それがなぜか、あちこちに飛び移りながら、続いてます。
なんでだろう。

整理してみたって、きりないくらいいろいろあります。
自分の部屋(本と衣類が抱き合って寝てるのを区分け)、
電気機器の取説(もう本体もないやつがいくつも大事にファイリングしてあった。)
山と積んだままの郵便物(いつもなにか大事なものをなくす〜専用棚に区分け、絶対透明なケース名前書く)
なぜ、こうも文具コーナーがあちこちにあるのかな・・・・というのをまとめるとか。

たまたまできたお気に入りは、この白いラック。


車輪が付いてるので狭い部屋でも好きに移動させて作業ができます。白いボードはどこかの棚のあまり。これがついてるからベッドサイドにおいてベッドで作業もします。ズボラ。
新しいものはほとんどいらなくて、だいたい子どもたちが使ってたもので間に合う、ってとこが、楽しい。役目をかえて再利用。楽しい。

自分には、絶対これはできない、という整理法があって、それは、めんどくさい手順があるもの、それから目に見えなくなるやつ。棚の扉を開けてから引き出しを開けて・・みたいな手順は何度試してもだめだったので、物が見えない整った部屋はとうの昔に諦めています。なにがどこにあるのか全部見えてること。
見えないものはないものです。
そして、見えない扉なんてつけたら、扉の前に物が詰まっていきます。そして扉は何年も閉じたままになるのです。
わかってます。

私は多分、全く片付けできない子ではないとおもいます。ただ、ひたすらに関心がうすく、暮らしの中での優先順位が著しく低い。こんな私がどうしてこんなことをやってるんだろう・・
(冒頭の写真は、見える化の台所、家をたてるときから自分の欠点はわかってたのでこうなったけど、ほこりがつきますので、おすすめではない。)

時間の余白、空間の余白そして、そこに舞い降りる鳥のように

私は、わけもわからない衝動で自分のやった行為の意味が、あとから、
「そういうことだったか」
と、納得する、みたいな、変な時間の流れをすることが時々あります。
みなさんもそうなんでしょうか?

整理整頓して、モノの位置が良い場所に置かれると、モノはたまりこまずに、日々の暮らしのなかで、生き物のように巣に帰るので(と言っても、私が運ぶのですが、ほんの少し動かして)そこに余白が生まれてきました。
少しづつ少しづつ。日々それが増えていって、余白はつながって、空間になって。

そうやってはじめて、自分がもういっぱいいっぱいだったことに気がついたのです。

忙しい。いいや、忙しいって言えるのは、物事を先へ先へ進めてる人だ、私しゃ、なんだかとても淀んでる。追っているはずのものにいつの間にか追われている。そこへ不安、自身のなさという追い打ち。

そうか。

だったら、自分がほんとうに次へ行ってみたくなるまで、自分に付き合ってみよう。どうもそれしかないらしいや。

そして、次はPCとスマホ、これも何がどこにあるのかわかなんない。せっかくとっておいた動画は?あのときのレポートは?とにかくやっていくことに夢中だった私は、ふと振り返ってみたら、自分で自分の筋道をおえなくなってました。これで何を人に伝えていけと・・・

いろいろ模索して結局evernoteに集結させることに。これもちょこっと、と思っていたのに、おお仕事でした。でも、ノートをノートブックに小分けできて、ノートブックをスタックにまとめられるevernoteは引き出しがわかりやくすくて、「みえないものはないもの」の私の脳にピッタリ。ノートはいつも見出しと写真がサムネイルで見られる。いつも見える化が実現。

この仕事をしてて一番ストレスになっていたのは、継続してレッスンや講座をしていくのに、どうしても前のときのことを仔細に思い出して、その人が何を感じてただろうとか、いつも考えてる、それをうっかり何も思い出せないということもあって、冷や汗が出たり、講座の直前になっても、イメージが湧いてこず、曲が定まらなかったり、そういうことです。だから常に頭の引き出しに物が詰まっています。仕事自体は好きなはずですけれど、もう多分私のキャパ的にはいっぱいだったみたいです。5年という歳月で積み上がっていたものは全部自分の記憶という倉庫のな中。加えて教室のこともやっているわけで。
友達は5人位がちょうどいいかも、くらいなキャパシティしかない私にしては、出会う人が多すぎる。追い打ちをかけるように、期限付きの物理的な作業の繰り返し(私はこれも死ぬほど苦手、いつも喘ぎながらやってる)。
でも、これからもっともっと人と出会いたいのに、この人力荷車でキャリーオーバー感がもう。

なんならもうぜんぶやめて、猫と寝たい。くらい、手放したくなってました。

そう、これからどうやって自分のドライブ感を掴んでいくか、ほんとにそれを考えておかないといけない瀬戸際やったんですね。忘れ方がわからなくなっていたようです。
一日放浪の旅にもでました。これままた後日書きたいです。愛媛の講座の皆さんにも話聴いてもらったりしました。余計だったエネルギーは外へ開放。

evernoteに情報を集めながら、気持ちがだんだんに落ち着いて来ました。そうすると、またいろいろ見えても来ました。風をはらんで、歩いてる感じ。ソフト面もハード面も全部見渡せるって気持ちいい。一つ積み上げたものが、 ノートに収まって、一度手放せるって、いい。上手に忘れて、上手に再生できる方法がやっとみつかった感じです。さながらevernoteは私の外脳、私はゆるゆる生きてた頃のわたしの脳内に戻れそうです。お花がきれい、鳥が鳴いた、そんなリアルタイムを十分に味わえるように。

時間の整理も見直しはじめました。決めたわけじゃない、そういう風になっていく。買い物の手間をへらすために生協にはいったこと、食器洗浄機を買ったこと。
それから、最初はとにかく一日やったことを記録として書きつけて始めた二冊目の手帳。これは、予定ではなくて、自分が何を一日したか思い出してみるための手帳。しばらくすると流れが見えてきて、これは、やりたいこととできる時間の落差が大きくて、いくら思ってもむりだなー。なんて、他人事みたいに俯瞰してみえてきました。
でもやりたいんだから仕方ない、見直して余白を探してみることに。何ができるでしょうかね。アイロンの服は降ろさないでハンガーにかけたまま移動するとか、そのためのハンガーを買ったりとか。書き出してみると随分やったなあ。まだまだ、考える余地がありそう。そうやって小さな余白が生まれてくるのが嬉しい。

やっとこうして、すこしずつ戻りつつあるフィールド。鳥が舞い戻るように、やっと自分が戻ってきた気がします。

余白、は、空間的なこと、時間的なこと、脳内のこと。これらは全部地続きでした。この世にうちもそともない。

おまけ

手を痛めてどうしようもなくなった庭仕事は、天の救いのように、友人が軽トラで乗り付けて、ガシガシ枝を切って、軽トラで運び去ってくれます。
軽トラが白馬にみえます、王子様。でも、まだまだ焼け石に水なので、またおねがいね。一緒に花を咲かそ。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!