1今日の庭

庭と音楽

広い庭を手に入れてしまったので、否応なく庭仕事をすることになった。
ここに越してきて、18年。庭は独自の生命をもっていて、時々私もその一部なのかなと感じることがある。

昨日ある方に、水やり、大変じゃないですか?と尋ねられて、なんと答えていいかわからなかった。大変も大変じゃないもなく、朝起きたら玄関を出て水をやる。それだけのこと。そこに対した感情はない。水やりしながら、植物たちと一体になる。

私にとって、庭は、音楽の師匠だ。

一つ一つの植物はみなそれぞれの葉の形をもっていて、そのモティーフを繰り返しながら、光を求めて、ときにうねりながらときに真っ直ぐに伸びていく。葉っぱは同じモティーフながら、呼吸するように少しずつ広がったり縮んだりして、バリエーションをつくり、グラデーションをつくり、そして、蕾を宿す。萼と花びらは幼くまるくうずくまっていて、ときを待っている。
そしてある日、庭にでると、いきなりそこに花が咲いている、というわけで、水やりしながらまいどまいど驚きの連続。
花はやがて、実になるものもあれば、散って終わりのものもある。
植物はそうして秋に向かう。
みんな、みんな、秋に向かって進む。

今は、6月になったばかり。庭はかなりうるさく音楽が鳴り響いてる。
みんながみんなこぞってその楽器を奏でる。
春先小さな花が奏でていたメヌエットも足元で、他の植物にバトンタッチしながら小さくまだ鳴っているけれども、それだけではなく今や、トランペットの如きホリホックやチーゼルやアカンサスやアーティチョークが2メートルをこす背丈で私を見下ろしながら、賑やかにファンファーレをやっているし、小さな小花の薔薇やクレマチスが群れをなして、ピアノの高等技術の音の数ほど咲いている。
もりもりの葉っぱたちは、小さいのから大きいのまで、弦楽器のように群れてこの曲の背景を見事に盛り上げる。
庭は、そう交響曲が今まさに絶頂のとき。
私はひたすら、庭の整理。風がよく通る身体は、楽器演奏に欠かせないように、手入れよくして、響を妨げないように、それぞれの景色がレイアウトよく風になびくように、と、ひたすら手を動かす。(それでも植物の勢いにいつか追い越されてしまって、結局最後諦めてしまうのだけれども・・)

ちょっとした仕事の合間、隙間の時間、コーヒーを入れて、庭に出て、この響の中に見を浸す。
小さな音、流れる音、勢いや、停滞や、広がり、縮むこと、
構成という、神の業。
私の小さな手の施したちょっとした整理整頓。


明らかに、私の感覚のどこかでそれは音楽に変換されていく。
いや、違う。
人の作った音楽は逆に、この風景や風や植物から変換されて生まれてきたものに違いない。
だから、その変換点はどこか、と自分の脳内をまさぐってみる。
そして、思う。
もしかしたら、変換、などされていないのかも、と。

まさにそれはどちらも音楽ではないのか。
同じ感覚で、それは私に話しかけてくる。
そしてそれを聞きながら、次の庭仕事を始める。

庭に手を入れるのと、音楽に手を入れるのはどうやっても同じ感覚だ。
それは疑いようのないことのように思うのだ。
98坪の敷地はかなりの重量の音楽。
このスケールを18年がかりで体験させてもらっているのは
きっときっと、私の音楽体験の底につながっていく。


この記事が参加している募集

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!