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自己紹介(大学時代)

皆さんの人生にも走馬灯のように蘇る「忘れられない瞬間」や、ふとしたきっかけに思い出す何気ない人生の瞬間があると思う。この大学時代は走馬灯のように蘇る「忘れられない瞬間」の代表的な時間で、今もまだその思い出の続きが少しずつ展開されている。

大学時代は演劇サークル勧誘の一コマから始まる。

演劇のお祭りにのめり込む

1995年4月、八王子のはずれの山の上が私のキャンパスだ。文字通りこれから将来の自分を構成する様々な思い出を描いていくキャンパス。

中央大学商学部経営学科に入学。入学式に出た記憶はない。頭はサークルのことでいっぱいだった。高校時代に始めた演劇でというところまでは決めていた。

写真は「ペデ下」と呼ばれるスペース。サークルの勧誘などはここか、この上の「ペデ上」と呼ばれるスペースで行われる。
※ペデ=ペデストリアンデッキのことだと思われる

4つくらい演劇サークルはあったのだが、受付にいた、いかにもオタクな先輩のハードルの低さから勧誘を受けてすぐに仲良くなったサークル(第二演劇研究会)に決めた。演劇サークルはどこも似たりよったりで割とダサ目の人が多く、それが私をホッとさせた。私の居場所はここだ。

今もひどいものだが、大学スタート時点、交流から逃げてきた荒んだ高校生活を送ってきている私、とにかくダサい。ギンガムチェックのシャツばかり着ていたのでギンガムチェックと呼ばれることもあった。でも若さゆえの不思議な自信だけはみなぎっていた。この土下座をしているが私だ。この粗さでも十分ダサいことが伝わるはず。

サークルに入り、自由のシャワーを一心に浴びた。大学には強制されることが何もない、心が激しく踊る。授業はサークルにいた同じ学科の先輩に言われるがままに取った。大学時代に学んだのは二外で取った簡単なスペイン語と「買い替え需要を促すため、家電にはタイマーのようなものがあり一定期間で壊れるようになっている」という一般教養で聞いた歪んだうんちくだけだ。ひたすら出会った演劇に没頭していった。


演劇生活はこうだ。

昼はサークル室でゲームとおしゃべり。
夕方から練習が始まり、夜まで練習。
終わったら行きつけのお店で飲んで帰宅。

これが週3くらい。残りは授業終わったらバイトへ。

これが本番になると一変する。まず平日の授業を休むことが強制された。大学生活で初めての強制。中高時代は授業を休まないということに力を注いでいたため、この休みには後ろ髪惹かれた…しかしそんな気持ちはすぐに吹き飛ぶ。

演劇の本番はお祭りだ。

このサークルでは主に下北沢はずれにある東演パラータという劇場を使っていた。劇場への搬入と舞台の準備に丸2日間かけた。最初はお手伝いとして入ったが新しいものだらけ。シーンにより照明が変わったり、音楽がかかったりというのはすべて裏で操作している人により成立する。当たり前だけどその仕組みは新しいもの。暗い中どうやって演者がスタンバイしていくかも見ていく。重ねられるゲネ(プロ)と呼ばれるリハーサル。連日朝から晩まで準備して、本番を迎える。

本番は華やかだ。たくさんのお客さんに暗転とともに緊張みなぎる劇場。入念に準備された劇が展開されていく。最初はハラハラしてきたが、あとはひたすら没頭していく。この後は4年間、演者として出演していくことになるが、とにかく集中をして感情を開放をしていくこの劇場の、本番の、この時間が何より好きになった。

片づけは総出で終わらせる、2日間かけて仕込んだ舞台は2時間かからず解体される。

すべてが終わって実施する打ち上げがこの演劇サークルの中毒性を加速させる。とんでもない達成感、一体感、高揚感。その後に訪れる寂寥感まで含めて感情が大きく揺れる。これを知っていると舞台をきっかけに交際に発展する有名人の話なんかは合点がいく。実際、演者同士で付き合う話なんてのはよくある話だった。

夏休みは夏合宿もあり、4泊5日で合宿所に籠もり、演劇練習をしつつ遊びまくるという夢のような企画もあり、どんどん結束力を深めていく。合宿最後の食事であるカレーを寂寥感を持って食べている光景は未だにはっきりと思い出せる。

そんな新鮮な体験をこれでもか!というくらい味わえた1年間。この間に高校時代から通っていた俳優養成所は退所。結局、レッスン以外ではドラマエキストラ数本と金田一少年の事件簿(生徒役)オーディション落選、という結果だった。投じた数十万円は私を演じることに目覚めさせただけの贅沢な投資に終わった。この演劇の世界に没頭しながらあっという間に時が過ぎていく。

人のつながりと旅に心奪われた

2年生になってさらに演劇に心を奪われていく。いろいろな人との出会いが多感な20歳前後に溢れた。プロの俳優と話す機会があったり、演出家の方からここでは到底書けないような貴重なオファーをもらった。忘れられない体験は私の一生の宝になっている。他のサークルや、他の大学にも興味の先は広がっていく。東京オレンジで活躍する堺雅人の姿も早大のテントで拝んだ。

高校時代から相変わらずパチンコに没頭していたが、徐々に時間は演劇にシフトしていく。ダサさは変わらないが、公演本番や人と交流する機会が増えたことで人嫌いだけは無くなった。

夏にはいっちょまえに恋もして、そして見事に振られた。**
その失恋に酔いしれ、そのまま坊主頭にして日本一周旅行をすることにした。**同期の水戸の実家に泊めてもらい、翌早朝から14泊15日、青春18きっぷだけで日本全国を回った。

水戸~一ノ関~青森~函館~札幌~旭川~稚内~礼文島~稚内~札幌~函館~青森~秋田~柏崎~白馬~名古屋~米原~大阪~鳥取~出雲~下関~博多~長崎~博多~広島~児島~高松~松山~京都~米原~豊橋~静岡~小田原~相模大野

ずっと電車に乗って、ずっと時刻表を眺めていた。小1から子供だけで新幹線完走した原体験もあり、電車は好きだった。この旅で「乗り鉄」としての自分が完成した。その後趣味が高じて、JRのルールと国内地理で8割を占める国内旅行取扱管理者(当時は取扱主任者)の資格も取った。未だ日本のあちこちが好きだ。

この旅では出会いもたくさんあった。礼文島は来た者同士で結束できるとてもいい島だった。男女で8時間ハイキングをする名物コースにも参加した。ここで生まれた夫婦は年間数十組になると聞いた。ここで出会った仲間たちとは東京へ戻っても関係が続いた。
下関では隣で飲んでいた方とご一緒したこともあった。泊まりもユースホステルなので毎日誰かしらと新しい出会いを重ねていった旅になった。

秋になり、また公演を重ね、新たな出会いも生まれ、多くの人との交わりの中で、少しずつ自信もつけ始めた。高円寺の古着屋で初めて自分で服も買った。変化が始まってきていた。
まだまだどうかと思うが、最初の土下座の頃よりはずいぶんマシになってきている。


リア充を極めていく

3年生になると現役の先輩としては最年長になる(4年生は就職活動があるため卒業直前の公演まで離れることが多い)。なんでもできる、怖いものはない、そんな全能感が極まっていた。

この演劇サークルはただ演劇をするだけにとどまらない。
大学から一部支援はあるものの、公演というのはすごくお金がかかる。採算度外視の価格でチケットも販売(すらできず大半が招待)するため、公演が終わるとみんな財布が苦しくなる。

それを知ってか知らずか、このサークルでは公演が行われる6月と10月の後の絶好のタイミングにお中元とお歳暮のタイミングで行われる福引のバイトを請け負っていた。声が出る、テンションが高い、必要な素養が合致した絶好の季節バイトだ。
色々なお客さんが色んな思いを乗せてガラポンを回しにくる。
こういったガラポンくじは後半盛り上がるように準備されることも学習した。大きい当たりは後半を狙いにいかないと当たらない。
この福引の1等は10万円相当の商品券だった。当たったお客さんのリアクションもさまざまで、「みんな当たっていると思っている余裕しゃくしゃくの方」から、「一生の運を使い果たしたくらい喜ぶ方」もいて様々で面白い。

6月公演を終え、お中元福引バイトに精を出し、試験を終えて夏休みを迎えるというのがこのサークルメンバーが過ごす夏の流れだった。

アルバイトも自分の人生に影響を及ぼした。

メインのアルバイトは1年から4年の夏まで地元のTSUTAYAでしていた。時給700円のバイトだが、J-POPには詳しくなれたし、たくさんの映画とも出会えた。ロバート・デ・ニーロの作品が大好きになり、ニューシネマパラダイスを借りて深夜のバイト明けから朝まで観て、一人でテレビにスタンディングオベーションをしていたこともあった。この時期に聞いた音楽と観た映画で私の文化は形成されている。

この年、後の人生へ強く影響を与えた同期2人とタイにも旅行へ行った。
電話もないのに現地集合にして、落ち合えず2時間タイの空港で祈りながら待ったのも今じゃ考えられないスタートだった。トイレにシャワーのノズルが付いている1泊50バーツの宿にも泊まった。その後も好き勝手な二人に振り回されながらインド人とつるんでクラブで行ったり、沢木耕太郎「深夜特急」のような寝台列車の旅にも行った。

秋に行われるホノルルマラソンにも仲間で行った。
当時のホノルルマラソンといえばドリフターズのメンバーが走るイメージが強かった。ブーさんが早々にリタイアして、志村⇒加藤の順でリタイア、悠々といかりやがゴールし、エンディングギリギリまで仲本工事が走るというイメージだった。あのホノルルマラソンにサークルの仲間で行くことになったのだ。

実際、ホノルルマラソンはマラソンのイメージにある皆が点々と走っていくなんてイメージではなく、スタートまで30分はかかったし、スタート後も団子でちっとも前に進まなかった。
しかし、それも5kmも進むとバラけてきた。そこから20kmくらいまで順調に走っていったが、フルマラソンはエネルギーの消費が大きいのでお腹が空くということを後半痛感する。結局後半はおなかが空いて動けなくなりそうだったが、どうにか完走した。仲本工事よりは早くゴールできたのを喜んだ。

とにかく日々が充実していた。遊ぶか演劇するか働くかの毎日。
こんな稽古場で仲間とつるんで笑い転げる日々。
写真は私が卒業してから22年後に撮った1枚だ。雰囲気は変わっていない。

年末になると徐々に就職活動の足音が聞こえ始めた。エントリーシートなるものをNHKから取り寄せた。異常な提出書類の数、勤務地として最初は渋谷(本社)を選べない、それでも狭き門…時間がもったいないとしか思えず、私の就職活動はこのNHKのエントリーシートを眺めただけで終わった。

全能感が崩れた1か月の入院生活

4年生となり、就活もあきらめ、全能感は極まっていた。
タイへ旅行へ行った同期2人を含む同期3人と劇団を作り、自主公演を打つことになった。場所は当時の伝手で用意した工学院大学の大講堂。新宿駅から徒歩圏、1000人くらいは収容できる巨大キャパの大講堂だ。そこに果敢にもチラシを600枚ほど撒いて1回限りの講演を行うことを決めた。あまりに自信過剰になっていたため、白黒のコピー機で刷ったチラシを見たら少なくとも3人に1人は見に来るという確信を持って最低200名は来る準備をしていた。

結果、来場者は26名だった。

間抜けだ。スカスカの大講堂で「消費税」というタイトルのシュールとしか言いようのない理不尽劇が展開されていった。マーケティングなんてものはまだ頭の片隅にも入っておらず、この集客を正当化する理由ばかり考えていたのを覚えている。今思えばよく26名も来てくださったというほうが勝る。

アルバイトも増やした。サークル内で、紹介制で勤められる不動産営業のアルバイトがあり、5月から始めた。もっと稼いでもっと遊ぶ、そんなアクセル全開で4年生は始まった。

全力で突っ走っていた5月末、私は掛け持ちのバイトをはしごしながら、6月の公演の稽古にも参加し、そのまま稽古場で朝まで過ごした。翌朝、移動時間の電車の中で寝て、また掛け持ちのバイトをこなしている最中、腹痛で立てなくなってしまった。

今までの人生で感じたことのない激痛。気絶しそうになりながら内科を受診し、そのままタクシーで大学病院に行き、受付に紹介状を出したところで即入院が決まった。通常100くらいで推移する白血球の値が3000を超えていた。

結局、1か月間入院となった。

参加予定だった春の公演には代役が立てられ、バイトは全て穴を開け、22歳の誕生日を病室で迎えた。退院前まで絶食の点滴生活だったため、体重はこの身長になってから初めて40kg台まで落ちた。泣いた。泣いて考えた。立ち返るきっかけになった。

入院生活は退屈だった。1998年、絶好調だった横浜ベイスターズの快進撃とフランスワールドカップ、そしてグルメ番組が生きがいだった。絶食なので、何にもまして食欲が勝る。

退院したのは22歳になった6月の終わりだ。

当時の就職活動は6月に最終面接⇒内定のラッシュを迎える。就職活動をしていたらと思うとぞっとした。私はここで挫折せずに済んだのがせめてもの救いだった。

退院後、徐々にいつもの生活を取り戻しつつ、バランス感覚を取って臨んだ。以前ほど演劇ともべったりせず、TSUTAYAのバイトも辞めて常勤は不動産営業一本に絞った。卒業公演で最後の脚本も書き、数撃ちゃ当たれで山ほど取った一般教養でどうにか単位も稼ぎ出し、指定校推薦で入った者が必須とされる4年間での卒業を果たした。

こんなエピソードをはじめ、ここで書ききれなかった、たくさんのエピソードとともに私の大学生活は幕を閉じた。



この4年間の演劇生活がもたらしたもの

私がこのサークルで出会った100名近くの役者の卵のうち、実際、演技の道で生活をしているのは数えるほどしかない。一人、連ドラや朝ドラにもたくさん出演している女優になった後輩がいる。彼女が出世頭で、あとは数名、プロデュース業などで生計を立てている者もいる。でも、ほんの一握りだ。

演劇というのは何かの技術を磨きたいというスキル的な動機よりは、

有名になりたい
見るのが好きだったから始めた
モテたいから始めた
自分を変えたい

そんなマインドの動機から始めている人がほとんどだ。だから得られる成果も「楽しかった」に代表されるマインド的なものが多い。

しかし、人前で聞きやすい話し方をする、声を通す、緊張せずに話せる、アドリブを繰り出して話せる、といった話術のスキルはかなり磨かれていたと社会人になってから感じている。この社交的な性格を作ったのもこの大学4年間のおかげだ。

人前で話すような機会が出てから演劇のスキルは生きてくる。
これは演劇をやっている学生の方や、これから演劇をやろうとしている方に伝えておきたい。

キャンパスは完成しない。

私の青春はこの大学卒業後も続く。実際は卒業後も自由な生き方をして、30歳近くまで演劇と関わってきた。

卒業してほどなく私は先の劇団を作ったメンバーとお笑い芸人を目指したり、共同生活をすることになる。その後、演劇を1つのきっかけに結婚をすることにもなる。

私の人生はここで出会った多くの仲間とかけがえのない眩しい時間で作られている。


皆さんの人生にもまた、かけがえのない瞬間があったのだと思います。
そんな大切な時間は過去の終わったことではなく、新たな道を進んでいく原動力になると思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。
皆さんの人生がいつまでも輝きますように。


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