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コチ 2−4

 コチは知らない声によって起こされた。
 そして、コチが目を覚ますとコチの体は動かなかった。
 自慢の小さな羽もぎゅっと何かに縛られているかのようだった。
 体を横に引っ張っても、縦に動かそうとしても動かない。
 それどころか、動こうとすればするほど何かがコチの体をより強く締め付けた。
 コチの体にはネバネバと白い糸がまとわり付いている。

 コチは蜘蛛の巣の中で目を覚ました。

 蜘蛛の巣は、走る車が止めどなく流れる国道の路肩に植えられたツツジにあった。
 蜘蛛の巣は、ツツジの上を這って緑の上に白い雲のように広がっている。
 遠い空には、まだ太陽がニヤニヤと笑っていた。
 太陽を拝むなら格好の場所であるが、残念ながらここの空気は美味しくない。
 これでもかと息の臭い車が通れば無理もない。
 こんな地獄のような環境に植えられたツツジも住めば都と開き直り、春の身支度で蕾を付けている。
 そんな中を、勝手に作られた白い糸の巣が、車が作る通り風によって不機嫌に揺れていた。

 「おーい。誰かいない?ここから出してよ。」

 コチの声は、虚しく車のエンジン音でかき消された。
 何度声をあげても、声は空には届かず無情に走り去る車は、コチのなげやりな予想よりも絶望なほどに多かった。
 葉の裏に付く大量のアブラムシの群れを見て「お前ら気持ち悪いな。」とからかうように笑う事があったが、灰色の道に溢れる車の群れを見れば、笑う事も出来ない事を知った。

 コチを捕らえる糸がビンビンと波打つように揺れる。
 糸を伝ってきた声がコチの耳に届く。

 「ここはわしが作った完璧な世界。どうして逃げる事があるのじゃ?」

 声は糸を伝ってやって来るが、相手の姿は見えない。
 何かを諭そうとするような声が、全身を縛る糸に伝わり、コチの体は逃げられないと訴える。

 「あなたは救われたのよ。」

 別の声が糸を伝ってやってきた。  
 明るい声だがどこか空虚な音がする。

 「救われた?」
 コチは、辺りを見回すが、誰の姿も見えなかった。
 気づいた事は白い糸が、コチの目では見えないところまで広がっているという事だ。

 コチは見えない相手にどう返事を送れば良いのか分からなかった。
 すると、再び白い糸が揺れ、コチに言葉を届けた。
 また、違う声だった。

 「ソトはキケンがいっぱい。」

 「ここにいればダイジョウブ。」 

 違う二つの能天気な声は、合わしたかのようにリズム良く並んだ。

 「君は選ばれたのじゃ。君は導かれてここにきた。何も恐れる事はないのじゃよ。」

 聞こえてきた声は、最初に届いた声だった。

 コチは見えない相手を探すことを諦め、空に向かって口を開いた。

 「どこの誰だか知らないけど、ここから出してくれよ。俺は帰りたいんだ。」

 コチの声は、糸を伝わり、相手に届いたようだ。

 「帰るだって?一体どこに?君の場所はここだ。君は、導かれてきたのじゃ。」

 「帰るなんて言わないで。ここは安心よ。私たちと同じ、あなたは選ばれたのよ。」

 「ソトはキケンがいっぱい。」

 「ここにいればダイジョウブ。」

 一斉に返信がコチに届く。コチは、誰に向かって言葉を返すべきか、すべてに応答すべきなのか分からない。
 もうなんだかとても鬱陶しいシステムだ。
 コチはとりあえず最初に届いた声に応答することにした。

 「導かれてきたってどういう事だよ?」

 「それはな。おま・・」

 「ソトはキケンがいっぱい。」

 「ここにいればダイジョウブ。」

 何?  
 コチには最初の声が遮られて良く聞こえなかった。
 すると白い糸からプツンプツンと音がする。

 「回線を変えてやった。これで邪魔も入るまい。どこまで話したかな?ああ。そうだ、そうだ。お前がここにきたって事は、お前にはきっと羽があるはずじゃ。どうじゃ?」

 「まあ一応ね。あんたには、俺が見えるのか?」

 「わしには、お前のすべてが見える。なぜだかわかるかね?ここはわしの作った世界だからだ。」

 「よく分からないな。」

 「わしはすべてを知っている。お前の運命もじゃ。」 

 「運命?」

 「お前は導かれてここにきたのじゃ。何が導いたと思う?その羽じゃよ。選ばれた羽を持つ者じゃなければここにはたどり着けない。お前は幸運の羽の持ち主じゃ。」

 声は高らかなにそう言った。コチは冷静に言葉を返す。

 「いや。違うよ。俺をここに運んだのは、幸運の羽じゃない。俺はあそこを走る車に運ばれ、飛ばされ、ここにきたんだ。どうやら間違ってここに落ちたらしい。」

 しばしの沈黙の後、糸から声が聞こえて来る。

 「お前は、幸運の車によってここに来たのじゃ。」

 「いやいや。幸運とかそんなデタラメいいから。ここから出してくれよ。」

 コチに絡まる糸からプツン、プツンと音が聞こえる。回線がまた変わった。

 突然、コチの背後からサササッと物音がした。白い糸で固められたコチは、振り向く事は出来ない。
 何かはコチをじっと観察して
 「はああ。やっぱりか。」
 とぴょんと再び奥へと消えていった。
 見えない何かがボソッと呟き再び気配を消した。
 身動きが取れない恐怖。
 相手の姿が見えない恐怖。
 この二つの恐怖だけで、恐怖は繁殖するかのように、次々と新たな架空の恐怖を造りあげる。
 コチは何かにすがるように声をあげる。

 「おーい。声さん。どこ行った?」

 返答はない。

 「おーい。」

 沈黙が秒針を数えるようにコチを見つめる。
 応答のない時間は、コチの心に不安が大雪のように降り積もっていく。
 その雪が、コチの心を真白く埋め尽くされるとようやくコチの耳に声が届く。

 「わしを。呼んだかね?」

 コチは必死に声を追いかけた。

 「なんだ。突然いなくなってしまったから心配したよ。」

 コチの声は安堵に満ち溢れていた。
 声の主はその声を聞いて、ほくそ笑む。

 「何も心配する事はない。君は、白い糸で結ばれている。その白い糸は、君を幸せに導く幸運の糸。その糸を決して離さなければ君は報われる。」

 「この白い糸のせいで動く事が出来ないのに?」

 「わしの声に従いなさい。今にその白い糸が君を包んで、太陽さえ君を見つける事が出来なくなる。そうすれば、チュンチュンとうるさい小鳥だって君を探せない。君は恐怖から解放されるのだ。君は、私の作る完璧な世界の居住者だ。」

 コチの耳から頭にすんなり向かって、声が鳴り響く。
 もがけばもがくほどコチの体を強く縛る白い糸は、コチの思考力も奪っていく。
 何が正しくて何が間違っているのか。
 考えるのも億劫になる。
 気持ちが上がってこない。
 重い塊のような沈んだ気持ちがコチを地底深くに引っ張るようだ。
 やたらと太陽が遠くに見える。

 「ここにいれば。忌々しい太陽の視線から逃げる事はない。この白い糸が守ってくれるんだ。」

 コチは、暗く沈んだ景色の中で、手っ取り早い希望を見つけた。

 「そうじゃ。君はここでこの完璧な世界で喜びを感じるのだ。春の日差しの中、飛ぶ蝶のように。」

 小さな蜘蛛はニヤリと笑った。

 小さなコチの青空がくすんだ。


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