見出し画像

コチ 2−5

 突然、コチの耳に懐かしい春の日差しのような笑い声が届いた。
 コチが見上げた空に太陽の光を背に浴びて黒い影が羽を翻し宙に舞う。
 それは一匹の蝶。

 「どこに行ったかと思えば、お前、こんな所にいたのかよ。で、どうした?」

 ホリデイだ。
 ホリデイが腹を抱えて笑っている。

 「お前・・。」 

 この状況で笑っているホリデイには、「なんて奴だ」と腹が立ったが、
 いつの間にかコチの空はくすんだ色から青色に戻っていた。

 「お前、この状況で‥。何で、笑っているんだよ。」

 コチは、思った通りの言葉をホリデイにぶつけた。

 「こんな状況に対面して、笑わない方がどうかしているだろ。お前はいいよな。お前の姿が見えないから。こっちの立場になってみろよ。」

 ホリデイは、空を転げ回りながら笑っている。
 そんなに間抜けな姿なのか、何度首を動かしてみても、自分の姿を見ることはできなかった。

 「ここに何しに来たんだよ。冷やかしに来たなら、早くどっかにいけ。」

 コチは、なんとか強がってホリデイを突き放した。

 「お前は、どこに行っても僕を追い出す気だな。何度も言わせるなよ。ここは僕の世界だ。嫌ならお前が出ていけよ。」

 コチは、一瞬何かを考えた。
 そして、違う事にすぐに気づく。

 「この状況。見てわかるだろ。出て行きたくても出て行けないんだよ。」

 コチは、怒鳴りつけるように、ホリデイに言葉を叩きつけた。
 それを聞いたホリデイは、また宙を転げ回って笑う。

 「なんだよ?助けてほしいのか?」

 コチは、意地で固めて作った泥のような盾を下に降ろそうかと勿体ぶっていると、糸を伝って、奇声が聞こえてきた。

 「なんたる幸運。やっとやっと出会えたぞ。」

 またあの声だ。
 さっきに比べるとかなり興奮した声だった。

 「おい。おい。お前の上を飛んでいる蝶は、お前の友達か?」

 コチはホリデイを見る。

 「ほら。助けて欲しいって言っちゃえよ?」
 変わらずそうはしゃぐホリデイ。
 ホリデイには、この声は聞こえていないみたいだ。

 「こんな奴。知らないよ。」

 糸に向かって答えるコチ。
 「ん?何?」
 とホリデイは眉をひそめる。
 
 すると、糸から答えが返ってくる。

 「いいか。耳をすませて、よく聞くんじゃ。その蝶を捕まえるのだ。その蝶は、私の作ったこの世界に必要な存在じゃ。」

 コチは、どういう事かわからなかった。
 だから、聞き返す。
 それだけの事がさっきは、なぜ出来なくなっていたのだろう。
 ホリデイは、様子のおかしいコチを不思議そうに見ている。

 「なあ、声よ。こいつは、あんたの作った世界を気に入らないと思うよ。こいつは、太陽の世界が好きらしいから。第一、この幸運の白い糸のせいで動けやしないよ。捕まえるなんて無理だよ。」

 コチの答えに声の主は少し怒りで震えていた。

 「うるさい。黙ってわしの言う事を聞くのじゃ。いいか。お前は動けなくても、その蝶に助けを求める事が出来るだろ?そうすれば蝶はこの白い糸に触れるだろう?そうすればこの白い糸はこの蝶にべったりとくっつき離さない。そして、もがくうちにもう逃げる事が出来ないほどに身体中に糸が絡みつくのじゃ。お前は動かなくて良い。助けを求めるだけじゃ。あとはわしの自慢のこの糸がやる。簡単だろ?」

 そして、声は、続けてコチにこう言った。

 「あいつを捕まえる事が出来たら、お前を白い糸から解放してやる。そしたらお前の言う通りここから逃がしてやる。自由だ。」

 コチは下を向き黙っていた。
 様子のおかしいコチにホリデイの顔はもう笑っていなかった。

 「お前、さっきから何ブツブツ言っているんだよ。大丈夫か?」

 コチが見上げると、ホリデイが真面目な顔をして近づいて来る。
 コチの脳裏に、糸からの言葉がこだまする。
 ホリデイが、コチを縛り付ける白い糸に手を伸ばそうと、すぐそこまで来ていた。

 「どっか行けって!」

 コチの怒鳴り声は、空高くまで響いた。
 その勢いで、困惑した表情のままホリデイは固まった。
 続けてコチは、言い放った。

 「俺はお前が嫌いなんだ。いいから、俺の前から消えてくれ!」

 ホリデイの困惑した顔はたちまち怒りに満ち溢れた。

 「そうかよ。じゃ勝手にしろ。勘違いするな、俺だってお前なんか好きじゃない。」

 そう言うと、ホリデイは、大きな羽を翻し、青空へと飛び去った。 
 ホリデイは簡単に空に消えた。


 「なんて事をしてくれたんだ!」

 コチの耳に発狂した声が届く。
 もうさっきまでの飾り付けた声じゃない。
 ホリデイの出現によって、本当の姿がお出ましだった。
 蜘蛛は、すーっと糸を伝って、コチの前に降りてきた。
 別に驚きはしない。
 こいつは蜘蛛の巣の主人で、小さな蜘蛛だ。
 小さなコチよりももっと小さい。
 その小さな顔は怒りで歪んでいた。

 「なんで、あの蝶を逃したんだ?」

 怒りのせいなのか、蜘蛛のぶら下がる糸が右へ左へと振られる。

 「別に逃したわけじゃないよ。あいつが勝手に出て行ったのさ。」

 そう言えばやっとあいつを追い出す事が出来た。
 一勝一敗だな。
 コチは思った。

 怒りに震える蜘蛛を少しでも落ち着かせようとおどけて首をかしげるコチだったが、やられた蜘蛛の怒りはヒートアップしていくばかりだった。
 でも、さっきまでの恐怖はコチにはなかった。
 さっきは知らないというだけで、恐怖はいくらでも大きくなり、絶望はコチの空を飲み込んでしまった。
 小さな蜘蛛がいくら怒っても、コチの見上げる空は今も青いままだ。

 「なんで、助けを請わなかったんだ?知らんぷりして、助けてもらうふりだけしていれば良かっただけだ。お前は頭が悪いのか?おー。あいつが嫌いなんだろ?嫌いな想像も簡単につく。おー。あの蝶が、糸に絡まってしまう事はただの事故であって。誰もお前を責めたりなんかしない。完璧な作戦だったじゃないか。お前がいくら正義感を振りまこうが、誰もお前を認めてなんかくれやしない。お前は、小さく、汚い、クソ不味い、嫌われ者の蛾なんだからな。」

 怒りで、右へ左へと糸は激しく揺れる。
 コチは揺れる蜘蛛の奥で広がる青い空を眺めていた。

 「よせって。そんな事、あんたに言われなくても知っているよ。まあ、不味いって言うのは初耳だけど。」

 そして、突然、蜘蛛はしくしくと泣き始めた。 
 どうやら情緒不安定のようだ。

 「わしの世界にようやく春がやってきたと思ったら春は突然、姿を消してしまった。わしはこの場所を作ったんだ。わしの設計図で作ったこの世界にどうして悲しみが訪れるのだ。喜びに満ちた春はどうやって作るのじゃ?春の恵みはいつやってくる?ここに来るのは、こんな小さな蛾やハエばかりじゃないか。」

 悲しみを背負った蜘蛛が糸にぶら下がりゆらゆら揺れる。

 「なあ。蜘蛛のおじさん。春を待っているなら俺は邪魔だろ?俺は、春には縁起の悪い名前を持っている。その名も「木枯らし」どうだ?俺がここにいたら、いつまでもここには春は訪れないよ。俺をここから解放してみてはいかがかな?」

 悲しみを背負った蜘蛛は、糸がねじれてしまったのだろう。
 お次は、その場をくるくると回っている。
 蜘蛛は、悲しみの世界で、ポツリポツリと言葉を落とす。

 「なぜ?わしに意見を言う。ここはわしの世界じゃ。この世界はわしの思い通りじゃなきゃならん。木枯らしか。わしの悲しみの世界によくお似合いだ。」

 悲しいおじさんの姿にコチは口を歪めた。

 「そんな事言うなよ。希望を捨てるなよ。春はまたすぐやってくるよ。」

 道路は騒々しく車が行き交う。
 コチは少しづつ排気ガスの臭いにも慣れてきた。
 でも蜘蛛は臭い臭いと泣き喚く。
 蜘蛛はツツジの蕾の花に気がついているのだろうか?
 蜘蛛は自分の世界しか見ていない。
 もう春はすぐ近くまできているのに。
 蜘蛛はいつまでも排気ガスの漂う曇った世界を作り続けている。
 コチにはツツジの蕾を見ることができる。
 心の白い糸はどうやら解けたみたいだ。
 コチは蜘蛛の世界の居住者にはならなかった。 
 コチは思った。きっと、あの蝶はコチを助けなかったわけじゃない。
 あの蝶が来てからここは、やたらと空が綺麗に見える。

 

 「コチ。おい。コチ。」

 声がした。誰かを呼ぶ声。コチ?

 見上げるとあの蝶がいた。

 「待っていろよ。今、助けるからな。」

 コチは、何がなんだか分からなかった。

 「え?なんで?」

 コチは分からなかった。

 「なんで、またいるんだよ。」

 コチの近くを飛ぶ蝶に蜘蛛も気が付いた。
 蜘蛛のおじさんは血相を変えてホリデイを追いかけた。

 「春だぁ。春の恵みじゃ。」

 先ほどの落ち込みが嘘のように、蜘蛛のおじさんは糸から糸へぴょんぴょんと跳ね。ホリデイを追いかける。

 「わっわっ!なんだ?こいつ。」

 ホリデイは慌てて逃げる。 
 蜘蛛のおじさんは、逃がさないようにお尻から糸をぴゅっぴゅっとホリデイに向かって発射する。
 ホリデイは、それをヒラヒラと上手にかわした。
 それでも何度も飛んでくる糸、ホリデイはコチの背後に回り、上手にコチを盾にして糸から逃げる。

 「おい!お前。何してんだよ?」

 コチが叫ぶ。

 「そんな怒るなよ。僕が捕まったら僕たち終わりだぞ。」

 蝶の言い分もわかる。蜘蛛は時折奇声をあげて我を失っている。

 「なんで戻ってきたんだよ。」

 慌てて羽を翻し、糸を避けるホリデイにコチは冷静な声で聞いた。
 それもそうだ。
 コチは動けない。
 今、忙しいのはホリデイだ。

 「青空の下飛んでいて気がついたんだよ。ここは僕の場所だろ?なんで俺が出て行かなきゃならないんだってな。出て行くのは、お前の方だ。だから、お前が出ていけるように、仕方ないから助けてやるよ。」

 ホリデイは息を切らせながら、そう言った。

 「どんだけ負けず嫌いなんだよ。」

 コチはこんな状況で少し吹き出した。
 そしてコチは忙しそうな蝶に向かってずっと気になっている質問をした。

 「なあ。お前さ。一体俺をどうやって助けるつもりなの?作戦はあるのかよ。」

 ホリデイは何も答えなかった。するとホリデイは、逃げるように空高く飛び去ってしまった。

 「えっ。」

 コチは突然の出来事に、呆然とホリデイが見えなくなるまでただ目で追うことしかできなかった。
 蝶が空に消えてコチは答えを探した。

 「‥諦めた?」

 空を見つめたまま止まるコチ。

 「行っちゃったの?」

 蜘蛛のおじさんもコチに呆然と聞いた。

 

 コチは誰もいなくなった空を眺めていた。
 蜘蛛のおじさんも空を見ていた。

 時間の経過がコチに答えを導き出す。

 「なんだよ。あいつ、結局逃げちまったじゃないか。」

 コチが文句を言っていると、隣で同じ空を見ていた蜘蛛のおじさんが言った。

 「諦めるな。大丈夫。春の恵みは戻ってくる。あいつは、お前に助けると言ったじゃないか。蝶は必ず約束を守る。まだ希望は残っているぞ。」

 蜘蛛のおじさんの話す口調は落ち着いていた。そして、ホリデイが戻って着たときの為にと新たな白い糸をお尻から出し、黙々と蜘蛛の巣を紡ぎ始めた。
 あの泣いていたおじさんの目は、今、イキイキとしていた。
 感情の起伏が激しい蜘蛛だ。

 「へえ。蝶は約束を守るのか。」

 コチが空を見上げていると、空から叫び声が聞こえてきた。
 あの蝶だ。

 本当だ。戻ってきた。

 「ィヤァー!!」

 ホリデイは叫びながら慌てた様子でがむしゃらに羽を動かし、まるで空から落ちるようにコチに絡まる蜘蛛の巣に突進し、そのまま、蜘蛛の巣に捕まった。

 呆気にとられるコチ。 

 「‥嘘だろ?これがおまえの作戦?捕まっちゃったじゃん?」

 コチの言葉を蜘蛛のおじさんの狂喜した奇声が打ち消した。

 「ひゃー。ついにやったぞ。春だ。春を手に入れた。」   

 ホリデイはコチと目が合うと、合図するように上を見上げる。

 ピエー!

 空が暗くなった。

 いや、大きな影だ。

 そのまま大きな黒い影が勢いよく蜘蛛の巣に絡まったコチとホリデイ目掛けて突っ込んできた。

 ピエー!

 鳥だ。

 勢いよく降り注ぐ鳥のクチバシがコチとホリデイの横すれすれに通過し、そのまま蜘蛛の巣を突き破った。
 ツツジの枝の中で体勢を整える鳥。
 翼に白い糸のついた鳥は気持ちが悪いのか、それを振り落とそうとその場で羽をバタつかせ暴れ回る。その度、蜘蛛の巣は、破壊されていった。

 コチはあまりにも突然の事で一体何が起きたのか分からなかった。

 「もしかして、この鳥、お前が?」

 「どうだ?良い作戦だろ?」

 ホリデイは、鳥が突っ込んだ衝撃で、ほつれた糸をひっぺ剥がしながら得意げにそう答えた。

 ピエー

 白い糸にイライラした鳥の声。
 突然、鳥は動きを止め、糸で縛られたコチと目が合った。
 コチを縛る糸は、まだしっかりとコチを捕まえていた。

 まずい。

 すると突然、コチの目の前に、ひらりとホリデイが現れた。鳥は、コチではなく、ひらりと動く蝶に標準を合わせた。

 「いいか。一瞬だぞ。」

 ホリデイは、鳥に意識を集中しながら、後ろのコチに合図を送る。
 鳥の丸い目がキラリと光ると鳥は、勢い良くホリデイ目掛けて突進する。

 「さあ。行くぞ。自由の空へ。」 

 ホリデイは、鳥の突進をひらりと交わし、空へと向かって羽ばたいた。

 ひらりと獲物が目の前からいなくなった鳥は、ホリデイの後ろで捕まるコチの方に突っ込んだ。
 コチのすぐ隣を通過する鳥のくちばしをコマ送りにコチの見開かれた目が捉える。
 すれすれだった。
 息を飲む。
 まだ体は固まっていた。
 ホリデイの叫ぶ声が聞こえる。

 「今だ。飛べ!」

 コチは、羽に意識を向ける。
 動く。
 糸がほつれふわふわとコチの周りに漂っている。
 コチは思い切って羽を羽ばたかせる。
 ダメだ。
 羽は動いても、白い糸がまだコチの足にしつこく絡みついて離さないでいた。
 もう少し。
 コチは、力いっぱい小さな羽を動かす。
 ムクッと起き上がった鳥が、小さなコチに気がついた。
 鳥はその場を離れる事のできないコチにゆっくり近づいてくる。

 「何をやってんだよ。早くしろ。」

 上空でホリデイの苛立つ声が聞こえる。

 「足に絡まった糸が取れないんだよ。」

 確実に近づいてくる鳥。
 その瞳に映る自分のもがく姿が見えた。
 焦るコチの前に再び、ホリデイが降りてきた。

 「こっちだ。こっち。」

 ホリデイは必死に自分に注目させるように鳥の前で騒ぎ立てる。
 鳥の目線は少しだけ、ホリデイに向くが、すぐに標準はコチに再び合わされた。
 コチの見上げる上空には、青い空にゆっくりと流れる真っ白な雲。
 それと太陽がいた。
 太陽は何を見つめる?
 そこから美しい世界は見つかったかい?

 コチは、まだ諦めていない。

 鳥の目が光る。

 「自由の世界だ。」

 そして、弾けるように、糸が外れた。

 外れた糸は、弾くようにコチを上空に飛ばした。
 間一髪。
 コチに逃げられたクチバシが再び蜘蛛の巣に突っ込んだ。

 「よしっきた!」

 ホリデイは、上空飛び上がったコチを確認し、空に向かってはしゃぎながら飛び上がった。
 ホリデイがチラっと下を見ると失った世界を呆然と見据える蜘蛛がいた。  
 鳥は、破壊された世界で、絡まる糸を取り除こうとまだ暴れていた。
 ホリデイは、はしゃぐ気持ちを抑え鳥に気づかれないようにそっと空まで羽ばたいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?