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名前を決めたい

あと1ヶ月ほどで出産予定日である。色々と子を迎える準備を進めているが、準備が完了していないものが一つだけある。子の名前である。

思っていた通りに、イメージと寸分違わず、全く決まらない。そりゃそうだ、名前なんて人生そのものである。単に記号のようなものであると同時に、記号とはそれ自体を示す枠組みであり、形作るものであり、つまり当人の人生そのものである。

私の敬愛する上白石萌音の曲「君の名前」の歌詞を引用するならば

名前って不思議ね まるで初めから決まってたみたい
呼んだときから 君の時計が動く

である。人生そのものである。


候補はたくさん出ていて、おそらくこれらの名前のうちから選ぶことになるのだと思っているけれど、なんというかバチっとパズルのピースのようにはめ込んでみたい。これだ、という確信がほしい。名付けてしまえばしっくりくるようになるのだろうが、しかし、そうなる前のSTEPとして自分が納得できるようにしたい。

そのためには、私の性格上、ただただ悩み続けるということが必要なのだけれど、私でない脳を使うにあたって、つまり妻の意見を汲みつつ情報整理をしていこうとするにあたって、私は超右脳型人間なので、普段なら即断即決、直感的に魅力的だと思う名前をチョイスし、あとで理由が付いてくる、そんな感じだったはずである。

当然、私一人ではそうならなかったであろう(更に素晴らしい)結論に至るSTEPというのは、やはり難産である。コントロールしづらい(がさらに優秀な)脳をうまく乗りこなしていくことで目指せる名前はさらに素敵で納得感のあるものになることが確約されているため、安心している部分もある。


しかしまあ、その”こと”の大切さ、また自分がこれをどれほど大切におもっているかという事実を改めて感じて、少々面食らっているというか、感動している部分があることもまた事実である。過去、私が意思決定においてこれほどまでに悩んだことがあっただろうか。中学受験、大学受験、就職/転職活動での意思決定はほとんど悩んだタイミングもなかった。意思決定は足の向く方向に軽やかに行うようにしてきた。私が私のことを決定するだけなのだから、私が選び取りたい選択肢が正解なのだというポリシーのとおりにしてきた。誤ったなと思ったこともないし、後悔したこともない。

しかし子の名前というのは。私の事ではなく、子のことなのである。私以外の人間の人生に明確に干渉し、かつ指針を示すことである。時計を動かすということである。


書いていて思い出したが、結婚に向かって歩き始めたとき、その覚悟を決めたときは大変に悩んだことを思い出した。他ならぬ自分の妻の人生をある程度縛ってしまうことに強いプレッシャーを覚えていた。妻は(特に当時)相対的に意思決定が苦手なタイプだったので、どうしても私の選択によって与える影響の大きさを考えずにはいられなかった。アレのMAX版がコレなのかもしれない、と思った。

まあ、妻には妻の人生があるし、私も同じだが、子は我々によって導かれる時間がめちゃくちゃ長い。いわゆる自由意志みたいな話に寄せるなら、相対的に子は自由意志が無さそうなレイヤからスタートするということになる。(妻と交際していた時、妻の意思決定が多少苦手だとしてもそれは意思は意思であっただろう)

ましてやはじめての自分の名前を自分で決めた人は存在しないように、誰かによって導かれるものである。子とは人とはそういうものだ。


話を戻すが、その導きの第一歩である名付けというものの重さたるや、私が生きていた中で最も重い意思決定となるだろう。今後の(それこそ、子の)長い人生で見ても大きなものである。
まあ、とはいえ別に重い話イコール苦しい話ということでは全然なくて、私は楽しんでいる。(note然り)言葉というものに縁のある人生を送ってきているので、最高の名前を贈りたいと思い、今もまた漢字とひらがなと向かい合っている。

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