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適当に文章を書くことの気持ちよさ

私はTumblrという誰も知らないであろうSNSで、一切のフォロワーもフォローも拡散もせず、身元も明かさずに適当に文章を書いていた。内容にはルールもテーマも設けず、本当にただキーボードを叩くだけ。自分の考えがちゃんと伝わるかな、とか、体系的な文章になっているかな、とか、読みやすいかな、論理的に正しいかな、エビデンスはちゃんと揃っているかな、とか、そういう類のことは一切考えない。推敲もほとんどしない。

これが私にとって、最高のストレス解消だった。私は理系学科の学部卒だけれど、得意不得意とは関係なく、文章や言葉というものが好きだった。変に考え込んでしまう性格だったこともあって、アウトプットに何かを書くというのが好きなのである。


それより以前は、なんというか、前略プロフを中心としたミニブログサイトみたいなのが流行っていた時代と、mixiやら超有名SNSを友人が全員やっているような状況で、誰にも一切見られずに何かを投稿するということをしたことが無かったので、自分がどれだけの承認欲求のもと文章を書いていたのかとかが曝露した感覚を覚えた。そして「誰にも見られないでいい」ということがどれほど快適なのかを知った。

そういう流れがあって、とはいえ書くからにはなんらかの主義主張を用意して公開したほうがいい(「いい」というのが腹立たしい。生産的、と適当に解釈する。生産的な)のではないかという、外からの声や自分の漠然とした気持ちとか、特定の分野、特にスマートフォンの知識に相当の自信を有し始めたことで、ALISというブロックチェーン技術をフル活用した面白試み国内ブログサービスに参画したりなどした。(10記事くらい書いたけれど、およそ1500円分くらいのトークンを獲得した程度だった気がする。今でもたまに更新している)


で、話が少し変わるが、私は重度のTwitterユーザであり、毎回140文字以上呟こうとして連投したり、特定のニュース記事に対するコメントを書いたりして、友人にも煙たがられるほどである。確認する方法があるのかは知らないが、フォロワーの半分以上が私のアカウントをミュートにしているだろうと思っている。(普通に会っていてフォローしていた同級生が一方的にフォローを外していたりもする。それは普通に感心してしまった)

で、ふと思った。滅茶苦茶ミュートされている(であろう)私が、あえてTwitterに連投する意味はあるのだろうかと。140文字以内に述べよというオーダーに応えて窮屈に投稿する意味はあるのだろうかと。

どうせなら、noteとかいう、無料で使える。無駄な広告の無い、素晴らしいサービスがあるじゃないかと。気づいた。

(気づくのがだいぶ遅かった。私はTwitterみたいにいろんな人の文字列が塊になってうごめいている様子を見るのが嫌いじゃなく、つい離れられない。投稿するときは、常に、承認欲求をできるだけ切り離して、なるべく誰かを傷つけないような形に削り上げて、そのうごめいている文字列たちの世界が「少しでも良くなりますように!」「集合知万歳!」と祈りながら投稿ボタンを押している)


という経緯でnoteを始めた。
これが9本目の記事になるわけだが、現時点で下書きが29本ある。
内容はとても公開できるものじゃないような酷いものから、あとオチだけ書けば投稿できる美しく推敲した文章までさまざまである。
必ずしも投稿はしないことにしている。せっかくなので書ききったものは公開させていただいているけれど、そもそもの目的は手指が動くがままにアウトプットすることに伴うストレス解消である。変に推敲しすぎて、美しくしすぎることに労力を割いてしまって、それで疲れては本末転倒だ。


直前に投稿した記事を書いて、突然、当初の目的を思い出した。久しぶりになんとかオチまでこぎつけることができて嬉しかったのと同時に、そもそもの私がnoteをやっている目的を思い出したのかもしれない。毎回オチまで持っていけない限り下書きに留まり続ける文章たちがかわいそうに思えてきたのかもしれない。

投稿から仕事をしつつ、正味40分程度で1600文字を書いた私は、ご承知いただけるとおり、書くのが早い。書くのだけは早いのだ。


今後も、適当に書いたり、力無いながらなんとか推敲して美しく仕上げようとしたり、様々投稿できればと思う。



~おまけ~

図らずも自己紹介みたいになったが、いつか自己紹介もしようと思う。ちなみに現在、自己紹介をしようとして断念した下書きが3つ溜まっている。

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