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もうひとつの建築家像 -alternative architects-


はじめに


はじめまして。上西徹建築設計事務所の代表の上西徹(うえにしとおる)と申します。こちらのページをご覧いただきありがとうございます。

岡山県で建築の設計事務所を主催しております。
自社のwebページで簡単な経歴を記載しておりますが、こちらに詳細な経歴のページを作成しました。

私の事務所に建築の設計の依頼されるか悩んでおられる方は、ぜひご一読いただき、判断の一つとしていただければ幸いです。

幼少期から高校まで


まずは、簡単に私の幼少期から高校までをまとめたいと思います。


私は1989年に岡山県の南区にある灘崎町で生まれ、兄と私と弟の3兄弟の次男として育ちました。


小学校、中学校は地元の学校に通いました。
小学生や中学生の頃は何かに熱中していた記憶が多いです。
小学生の頃はゲームや虫取りが好きで、早朝から兄弟とゲームをしたり、夏は両親と昆虫採集に出かけたりしていました。学校では休み時間や放課後はほとんど友人と外で遊んでいました。


週に4日ほど習い事に通っており、ピアノ、硬筆、水泳、テニスと慌ただしい日々を送っていた気がします。
結果として習い事はそれほど身につきませんでしたが、複数の習い事をしていたことで、世の中で自分の得意な事を生業としている人が居ることを知れたのが、今となっては良かったと考えています。

中学校の部活はバスケットボール部に所属していて、インドアとアウトドアのどちらの遊びにも楽しみを見出していたと思います。
ちなみに、スラムダンクに出てくる安西監督の言葉「断固たる決意」は私の最も好きな言葉です。どんなことでも本気で取り組むには腹を括って、時にはさまざまなリスクと向き合うこと必要があります。私にとっては人生の節目に勇気づけられる言葉です。


また、中学生の頃は上記の習い事が塾に変わり、週2〜4ペースで塾に通っていました。


高校は岡山県立岡山芳泉高校に入学しました。
進学校にも関わらず、私は勉強に身が入らず成績は良くありませんでした。
今となって考えれば、将来どのような仕事をして生きていくのかこの時に明確になっていれば、目標の大学や学部を決め、それに向けて勉強できていたのかも知れません。高校では自分のやりたいことはすぐには見つけられませんでした。
自分がやりたいことを探してそれをやると決めることには覚悟も必要ですし、時間がかかります。

建築学科に入学し、将来建築の設計者になりたいと考え始めたのは高校3年生の秋でした。当時はまだ岡山大学の建築学科は創設されておらず、そもそも勉強ができなかった私は県外の国立大学に行くには学力が全く足りませんでした。

岡山県内の大学の中で、純粋な建築学科は新設されたばかりの岡山理科大学だけでした。しかし、県外の私大に行くとなると、高額な学費に加え莫大な生活費がかかるので、両親や弟にも迷惑をかけると考え岡山理科大学の建築学科に入学しました。


実際のところ、岡山理科大学も4年間で学費は600万程掛かかり、さらに私は大学院まで通ったため、両親には間抜けな息子のために大きな出費をさせ、苦労をかけたと思います。

大学時代


高校時代の終わりに建築の設計者になりたいと考え始め、私立の大学に入ることが決まってからは、流石に真剣に勉強をしようと考えていました。
私自身、地方の私立大学に通わせてくれる両親に対して、申し訳ない気持ちが多分にありました。

大学生活において、建築学科は課題の提出でとても忙しくなる時期が定期的にあるため、部活やサークルには入りませんでした。
地方の私立大学とはいうものの、教授陣のレベルは高く専門分野の様々なことを勉強できました。有名大学やスーパーゼネコンのOBである教授が多く、建築の勉強以外でも、私が今までの人生で出会ってこなかった考え方をする方が居らしたので、そのような先生方と話す機会があったことは建築の分野だけでなく自分の世界を広げる上で大切な時間だったと感じています。

授業や課題はもちろん、自分が興味のある建築の本を読んだり、県内の設計事務所でアルバイトをして、私なりに充実した学生生活を過ごすことができました。
アルバイト先の設計事務所のボスや所員の方々は優しく技術的に様々なことを勉強できただけでなく、社会人として働く上で磨くべき人間性も見習うべきところがとても沢山ありました。


また、県内の大学や専門学校が集まって開催される設計競技は他の学校の学生と同じ課題を共有でき、自分の大学の中だけでは見えない世界や有名な建築家の審査員にプレゼンテーションする機会に恵まれ、視野を広げることができました。


それから、休日を使って有名建築を見に行く旅も幾度となく行い、全国の建築やまちを見て周りました。

大学3年生の時からは研究室に配属され、設計と都市計画が専門の先生のもとで
教わったことは、私の現在に多分に生かされています。


私にとって良くも悪しくも大きかったことは、創設されたばかりの建築学科のため、私の学年は2期生で学科内の先輩がほとんど居らず、その恩恵をほとんど受けられなかったことです。
CADやデザインソフトの使い方や、インターンや就職に関するノウハウ、コンペや展示会の経験は、基本的に研究室の先輩から多くの恩恵を受けることができますが、私の場合はそれが一切なく、全て自分で勉強して行動するしかありませんでした。


学生時代は歴史や伝統のある学校を羨ましく思った時もありましたが、一切のことを0から考えて独学で勉強する癖がついたのは、後から考えると良かったと思います。

大学院時代


大学を経て同大学の大学院に入学する訳ですが、進学を決める際に将来的に独立をして自分の事務所を持つことを決めました。わざわざ大学院まで行くので、将来の目標を明確に設定しておくことが大切だと考えたからです。

大学院時代は2年間しかないため、時間を無駄にしないように様々な事に打ち込みました。周りから見たら少し無理をしていたかも知れません。

2級建築士の資格を取得したり、修士論文のために長期間にわたってまちなみ調査を行いました。
修士では、日本建築史が専門の教授の研究室に移り、岡山県内のとある地域で日本の江戸後期から昭和にかけての町屋の実測調査を30棟程行い、図面作成や各建物の個別の歴史を調査し、まちがどのように変化してきたかについて論文を書きました。


学部時代からに引き続き、学外の設計競技に参加したり、地元の設計事務所でアルバイトをしつつ毎週の初めには大学の図書館に通い、建築の書籍や論文を借りれるだけ借りてきては(毎回10冊ほど)読みあさり、図書館に長時間居座っていることも多々ありました。その時に図書館に無かった本は事務に言ってできる限り注文をしてもらいました。(図書館には私が仕入れてもらった本が沢山あります。)

全国の大学生や院生が応募する建築の展示会に参加したこともありました。
福岡県まで自分の作った図面をまとめたパネルや模型を車で運んで展示しました。
厳しい審査基準の中で予選を通過し、全国の高いレベルの学生たちと図面や模型を並べたことで、私の立ち位置を相対的に理解する一つの尺度ができたことが非常に良かったと思っています。

夏休みや冬休みといった長期休暇では東京都のアトリエ設計事務所にインターンシップに行きました。(アトリエとは建築のデザイン業務を主とする小さな設計事務所のことです。)
こちらは就職活動も兼ねていて、3つの事務所に合計4回行きました。
私がインターンに伺った東京都の設計事務所はどこも非常にレベルが高く、事務所の所員は全て院卒で、建築の有名大学から就職してきている、いわゆる建築のエリートと呼ばれるような方々ばかりでした。
平日は朝から晩までインターンを行い、休日は都内の有名建築をひたすら見て回る日々でした。


どの事務所も要求される業務のレベルが高く、当時の私はその要求に応えられないことも多々あったように思います。
都心の大学から同じようにインターンに来ていた学生もいましたが、私とは大きな実力差があったように感じました。
大変なことは多かったですが、その時の実力が足りないのは当然としても、最後までやり切ることはできました。
私はこの時の自分の実力不足を痛感した経験が、後の人生で一番糧になったと感じています。


複数回東京都に出て行っていたため、旅費や宿泊費もそれなりにかかり、最後の方はお金がなくなって、インターン先の事務所に所員の方と同様に寝袋で事務所に泊まり、4日に一回のペースでお風呂に入るためにカプセルホテルに泊まっていました。
(所員の方は自宅には週一回しか帰っていませんでした。)


また、別の事務所でインターンをした際は、3ヶ月ほどシェアハウスのドミトリー(4人部屋)を借りて過ごすこともありました。個人的には個室の無い空間に慣れるまでの期間が一番精神的に参りました。
しかし、この体験ゆえに自邸の計画は個室無しとなっています。


結局、大学院時代の最後まで修士論文や就職活動用のポートフォリオ(自分の作品集)の制作に力を注ぎ込んで、週4日ほど学校に泊まっては家に帰り、また学校に行くというサイクルで作業をしていました。


後になって振り返ると大学院時代は、学部からの進学者が全部で4名しかいなかったため、学部時代とは異なり、そのほとんどが個人行動だったので、自分がやりたいことに打ち込めた時間でした。

しかし、結局自分が行きたかった事務所には入れませんでした。小さな事務所の採用倍率は極めて高く、私が最も行きたかった事務所の採用率は、例年50倍程で非常に狭き門でした。

この時にはすでに自分の目指すべき建築デザインは決まっていて、世の中に星の数ほどある設計事務所の中でも、就職したいと思ったのは2社ほどしかありませんでした。若手の中でもすでに有名な設計事務所ともなれば、どこも就職はその人の実力と採用される枠があるかどうかのタイミングが大切です。

建築家として独立した後に成功するための最も一般的なルートの一つは、有名な建築家が主宰するデザイン能力が高い設計事務所で修行し、そこで所員として実作を残すことです。それは独立後もその人の実績として最初の仕事をするまでの間、信用につながります。

私は自分が行きたかった事務所に採用されなかったので、上記のルートは諦めることにしました。自分が心の底から良いと思える建築を創る事務所ではない場所に就職すると、この先でデザインに対する考え方が中途半端になると思ったからです。


上記とは別のルートを進むとしても独立して自分の事務所を開業するためにはどこか設計業務ができる事務所で3年間働く必要があります。
(独立して自分の事務所を構えるには、管理建築士という資格が必要で、資格を得るには建築士の資格を持った上で3年間設計に関わる業務をこなすことで、管理建築士の講習を受けることが可能となります。)


そこで私は、現代建築を主として扱う設計事務所ではなく、社寺仏閣の修理を主な業務としている設計事務所に入ることにしました。中途半端にデザインを勉強するより、修行時代を日本建築の勉強に充てようと考えたからです。

独立のため非常に身勝手な理由で就職をした訳ですが、設計事務所のボスは全てを理解した上で私を会社に入れてくださいました。設計事務所のボスは大学院の同じ研究室に社会人として通っており、以前から知り合いでした。3年という短い期間でしたが、ボスから教えていただいたことやボスの業務への姿勢を見て学んだことは今に大きく生きています。

設計事務所時代


ということで、社寺仏閣の修理を主な業務としている設計事務所には3年間勤めました。
福岡県と大分県に事務所があったので、地元の岡山県から離れ、福岡県に住みながら働きました。


事務所の業務は、主に古い社寺建築(文化財)の調査や図面作成、納骨堂の設計・管理を行いました。文化財の修理については専門の知識や経験が膨大に必要となるので3年程度でとても理解できるものではありませんが、日本の伝統建築を実際に間近で見る機会が多く仕事は楽しかったです。
建物の作り方や現場で実際に建物の立ち上がる様子を見るのはとても勉強になりました。

打ち合わせに参加したり、様々な図面を見て勉強したりと独立に向けて必要そうな事は所員の方から言われなくても行いました。


土日は基本的に一級建築士の勉強をするために資格の予備校に通っていました。
ほとんど休日はなかったように思いますが、入社から独立まで3年しか時間がないので時間を無駄にしないよう心がけていました。

独立後から現在まで


福岡県で設計事務所の所員として3年間勤務した後、岡山県に帰って来て独立しました。独立した時はまだ二級建築士でしたので、朝から昼過ぎまでは事務所の業務や建築士の勉強をしつつ、夕方から深夜にかけて派遣の仕事をしながら収入を得ていました。若くして建築家として独立すると、よくあるパターンです。

派遣の仕事は、工場で教材の印刷物を刷る機械を動かす仕事をしたり、化粧品に広告シールを貼っていく仕事をしたり、スーパーに入荷する商品の検品をしたりと時期によって場所が変わりながら様々な場所で働きました。
職場環境は場所によって大きく異なっていて、働きやすい場所もあれば常にピリピリした場所もありましたが、いずれも真面目に働いてい他ので非常に過ごしやすかったです。

そうこうしているうちに、一級建築士の試験に合格したので今度は建築士の資格学校で講師をすることにしました。
3年ほど教えていると資格学校の営業の方から専門学校の非常勤講師の仕事を紹介していただき、一時的には仕事を3つ掛け持ちしていましたが、設計の業務に支障をきたすので、現在は自分の事務所と非常勤講師の仕事で生計を立てています。


2022年に私が初めて設計した住宅が完成しました。クライアントは私の友人の職場の同僚の方でした。住宅設計の経験のない私に仕事を依頼をくださり、時間がかかりましたが無事に完成させることができました。
クライアント夫妻とそのご家族、そして友人にも大きな大きな感謝をしております。
下に住宅の写真を掲載したいと思います。

緑景へ続く家/2022
緑景へ続く家/2022
緑景へ続く家/2022
緑景へ続く家/2022
緑景へ続く家/2022
緑景へ続く家/2022

たとえ初めて設計する用途でも、質の高い建築を目指しました。
初めて自分の名前で仕事をする訳ですから、この時に設計者として覚悟を決めて計画を進めるということの大切さを身をもって知りました。
施工してくださる工務店や職人の方々にも大変お世話になりました。

今後について


最後に、私は一般的な建築のエリートコースとは異なる道を歩いてきましたが、大学時代に自分で独立すると決めてから、どんな時でも建築の設計を中心にして質の高い建築を計画することを目指して一本道でここまで来ることができました。


建築をつくることは、創造と選択の連続です。
長い時間多角的なリスクと向き合い、忍耐力と設計への覚悟を持って生きてきたことが、私のアイデンティティーの一端となり、建築をつくる上での創造や選択における判断の価値基準や優先順位において、一般的な設計者とは大きな違いとなっています。


私の設計事務所では「alternative architects」という言葉を掲げています。
「alternative」とは「替わりとなる」、「主流とは異なる」といった意味を持ちます。
また、「architect(s)」とは建築家のことを指します。

つまり、建築のエリートコースを歩んだわけでもなく、経済的な観点から主流となっている量産型の建築とも異なる方法で、質の高い建築を追求する建築家という意味です。

上記のような人生だったからこそ形成された建築家像ですが、今後もクライアントや社会に向けて私の設計事務所ならではの提案を行っていきたいと考えています。

ここまで非常に長い自己紹介でしたが、お付き合いくださったみなさま、誠にありがとうございました。
私自身、自分のことを詳しく話す機会はほとんど無いので、webページ等を見てきてくださった方は私の事務所を判断する上でご参考にしていただければ幸いです。
それでは引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

    上西徹建築設計事務所代表 上西 徹

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