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修験について

先日、自宅から、富士の麓にある村山浅間神社まで歩いて行きました。距離にして5kmほどらしく、行きは登り坂なので中々の道程です。

自分は日頃から文章を打つ仕事ばかりなので、運動不足は常でありますから、こういった機会に足を使うのは有難いことです。行きの山道ではアオダイショウの幼蛇が雑草の葉の連なるところで昼寝をしていました。帰りは雨に降られました。山の天気は変わりやすいのです。


修験とは

修験(しゅげん)とは、山で修行をする行者のことです。

古くから、山には神様(仏教でいえば仏様)が住むとされます。科学の発展した今でこそ、山は地質学的にこうであるとか、噴火によって出来たとか解明されていますが、そんな概念がなかった頃から定められたのが「神仏の住む場所」ということです。

これは国も民族も関係なく世界で共通しています。人の発想は往々にして同じなのです。

その神を祀る山で修行を続ける特別な者が「修験者」です。山伏(やまぶし)ともいいますが、分けると「麓まで下りてくる者を修験者」といい「時期の大半を山で過ごす者を山伏」という、あるいは「修験者を指導する立場にある者を山伏」といい、「そこへ務めるのではなく信仰している者すべてを修験者」という伝えもあるようです。

また修験そのものの起こりは歴史を遡り、日本に大乗仏教を伝えた中国では俗世を離れて山に籠り、煩悩を取り払うための修行をしたからともいわれます。今では神仏習合の形で発展したようにいわれますが、元は神仏分離令によってそうされたところが大半なので、その実では仏優位の体をとるところが多いといいます。いわば仏神習合です。

神道の教えでも山を信仰する考えは古来よりありますが、ただ祀るだけでなく山へ登り山へ籠るといったやり方は仏教や道教の特色だそうです。

村山修験

修験道は全国各地の山々で催され、富士山の正面側ようするに駿河の国側では村山修験が伝わっています。冒頭に書いた村山浅間神社がその場所にあたります。

村山は、京都は聖護院(しょうごいん)の直末にあたり、富士修験の修行道です。富士山へ上り、富士山の神仏を祀ります。

ただ上で書いたように修験道は元々仏教の修行のものなので、村山浅間神社ではなく隣に並ぶ興法寺(こうぼうじ)が主となっています。祀られるは真言密教の仏である大日如来で、同じにカグヤヒメも祀っています。これは富士信仰の特色でもあります。

これは地元の一部の方を除き、ほとんどの方が知らないようです。自分も以前に地元の方に連れられて訪ね、小説咲夜姫をお渡ししようとしたら「サクヤヒメでは無理です」と断られました。富士信仰のことも織り交ぜた作品でもあることを伝えてもよかったのですが、心は浅間神社ではなく興法寺と修験にあるという意思なのだと察します。これは人間性ではなく宗派の話です。しかし無下にはされずに案内してもらえた恩は忘れません。

山岳信仰と神社神道

この富士修験と浅間神道の関係、いわば興法寺と浅間大社の関係というのが富士宮の双璧で、地元でもどちらかに関わる人だけが理解しているようです。神社の町とされながら山の修験が色濃く残るので、このような有り方になったと聞きました。

これを気難しいと取るか、素晴らしいと取るかは、その人の頭の柔らかさに寄ると思っています。自分は、宗教は"目的"ではなく平和への"手段"だと考えているので、宗教そのものを目的として生きる人からすればこの問題はセンシティブなことです。

 宿坊には、山伏と呼ばれる修験者が二人暮らしていた。ともに歳の頃は甚六と同じくらい。所作も振る舞いも落ち着いていた。体躯は特別に頑健でないが、すらりと身軽そうである。修験者と同じような、結い袈裟と装束を着けた格好だった。
 二人は富士のこの宿坊に常駐し、まず下山することはないという。夏時季には他の修験者、参拝者などを迎えて泊め、御師の役目も担うが、いわゆる人間相手に信仰を説く御師とは一線を画し、山の神とひたすら向き合い続ける信仰者である。

小説咲夜姫/山口歌糸

昔の倣いに沿って解釈すると、富士山が噴火せず、大きな地震も起こらずにあるなら、人々の業は今のところ間違ってはいないようです。