見出し画像

富士北麓に伝わる竹取物語神話

以前に富士山かぐや姫ミュージアムへ行った際に買った書物で、興味深い記述がありました。竹取物語の珍しい伝承です。

富士山北麓では、富士吉田に伝わる宝暦六年(一七五六)の年記をもつ『富士山略縁起』を近代に書写した『上吉田記録』(ふじさんミュージアム蔵)があります。これは、上吉田の御師たちが、赫夜姫と木花開耶姫命をあわせた解釈のもと物語を展開させたものです。具体的には、赫夜姫は欽明天皇(六世紀半ば在位)の后妃とされ、欽明天皇は日本神話における木花開耶姫命の夫の瓊々杵尊、赫夜姫を木花開耶姫命であると解釈し、さらには聖徳太子の母は欽明天皇の第三女・穴穂部間人皇女であり、つまり赫夜姫を聖徳太子の祖母としている内容が記されています。

富士山東泉院の歴史/富士山かぐや姫ミュージアム

東泉院富士山縁起

富士市にある東泉院は長らく閉ざされた寺院であったといいますが、この書物のあとがき(かぐや姫ミュージアム木ノ内館長著)では昭和六十年頃から少しずつ調査が始まったようです。当時のことがどこか懐旧の情のように綴られています。

そしていま富士市から出ている富士山の竹取物語は、室町時代の1560年頃に書かれた富士山縁起が大元といわれます。竹取物語の大元は平安時代の800年頃ですから、派生した伝承の形だとわかります。

この書物にもある通り、竹取物語は無数の伝承が存在します。以前に自分もまとめてみた奈良県広陵町の話は最もオーソドックスな竹取物語の形かなと思います。

竹取物語伝承の理由

わざわざ竹取物語を少し変えてでも伝承してみる理由としては二つあり、一つは「町おこし」もう一つは「宗派の布教」です。これはおおよそ間違いではないかなと思います。

単なる町おこしとして「この物語はうちの町が舞台だった」と言い伝えるならまあ普通のことですが、竹取物語は元々からやや宗教的な色合いを見せる話なので、かぐや姫自体が何者なのか、神なのか仏なのかなど、様々に補足や改変などされつつ伝わるのが常なわけです。

この発想は宗教ができあがった頃から人々の中にはあり、例を挙げれば聖書や古事記などもすべてが小説のように描かれています。宗教はそのまま哲学として言い伝えようとしても難しく、信徒ではない民衆にわかりやすくするために小説のような形を取っている、というのが定説です。現代を生きる我々は「どうしても宗教っていうのは難しいな、昔の人はよく理解できたものだ」と考えるでしょうが、昔の人もほとんどわからなかったので面白おかしい話に換えて何とか伝えようとはしていたのです。

加えて、富士山の竹取物語を始め、伝承の多くで仏教色が強くなるのはどちらかといえば多い例で、仏教というのは原典を無くしてしまっている(※釈迦の死後に弟子二人ほどがまとめたという記録だけがある)ので、宗派を広めるための術としてわかりやすい説話を欲しがる傾向にあった、なんていわれます。

逆にいえば、原典を持っている神道がわざわざそういった物語に固執する必要性はあまりない、ともいえます。

御師が残した神話の竹取伝承

そして冒頭に引用した記述にふれますが、古事記と結びつけられた富士山の竹取物語の説話は至極珍しいと思います。御師といわれるのでおそらく富士講さんの関係だとは思いますし、その話が書かれた時は江戸時代で、すると富士山の祭神は木花開耶姫とされた後ですから、このように書かれたのだと思います。

富士宮や富士市にもそんな言い伝えはあり、当たり前のように「かぐや姫とサクヤヒメは同じですよ」と答える方もいましたが、竹取物語の形を成した神道の説話はおそらくどこにもないかなと思っています。自分も以前に躍起になって蔵書を漁ってみたことはあり、「同じといわれます」という記述を一、二冊の本の中で見かけただけでした。

ただちょっと不思議なのが一つあり、瓊瓊杵尊は初代神武天皇の曽祖父なので、二十九代欽明天皇と同一であるという話では時系列と家系図がよくわからなくなります。本文や補足などを知らないと何ともいえませんが、わざわざ瓊瓊杵尊と木花開耶姫を後世の者であるとするのは、実在したと定義するのが狙いなのかなとも思いました。