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竹取物語の写文

竹取物語は、既に原文が現存しません。"単に書き写しである写文"と、"校正までされてまとまった写本"が今日まで伝わっています。


後光厳天皇写文

その写文の最古の物が、竹取物語成立から五百年以上の後の室町時代に後光厳天皇(ごこうごんてんのう)によって書き写されたとされます。室町時代の初期から区分される南北朝時代は北朝の第四代目天皇です。

写文の最古が偶然にもそれだったというだけで、北朝やこの時期の天皇に関連があるとは考えられていません。おそらくですが南朝にも竹取物語の存在は認識され、写文もあったと考えられます。

さらに後光厳天皇の写文は、十一葉(紙十一枚)ばかりの短いものです。内の一葉は後光厳天皇に近任した歌人の二条為定(にじょうためさだ)によるもので、合計にして九行ほどにしかならないといいます。十一葉で九行とはどのような紙なのかと思えますが。

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紹巴本・武藤本

物語の大まかな筋書きが伝わる写本における古い物は、元亀(げんき)元年(一五七〇年)に連歌師(れんがし)の里村紹巴(さとむらじょう)が書写した「紹巴本」が知られます。書面上では彼の号である臨江斎(りんこうさい)の名が成年と共に書かれてあります。

それ以前には、天正二十年(一五九二年)六月、公卿であり歌人でもあった中院通勝(なかのいんみちかつ)が前伊賀守(いがのかみ)の上原元純(うえはらもとずみ)に書写させた後、自らも校正にあたり、文禄五年(一五九六年)には松下民部少輔述久(まつしたたみんぶしょうゆうのぶひさ)(※松下述久)による松下本と校合するに至った「武藤本」があります。これは国文学者の武藤元信(むとうもとのぶ)(一八五五年~一九一八年)が旧蔵していたことから名付き、現在は天理図書館に蔵書されています。

紹巴本が発見されたのが一九九六年と最近であることから、長らく日本では武藤本こそが、完成された最古の写本であるとされてきました。

他にも室町時代から安土桃山時代を挟んで江戸時代に至るまで、数多くの写文と写本が作られ伝えられました。題名も源氏物語では「竹取の翁」や「かぐや姫」と書かれたように、様々な呼ばれ方をしています。そうして一般に浸透したのが「竹取物語」の名でした。

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