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先達について

ずいぶん前になりますが、修験道における御師について書いてみています。

自著の小説咲夜姫では、富士山の修験道の人として御師が登場します。舞台は江戸時代になっているので、登場する時期は合っています。

先達せんだつ。「せんだち」「せんたつ」などともいう)とは、主に修験道の指導者を指します。広義な意味があるそうですが、山岳修験の道には先達が置かれるというのです。

じゃあ御師と何が違うかというと、名前です。昨年頃に富士山世界遺産センターを訪ねて先生からお話を伺った際、静岡の表口の方では御師と呼ばずに先達と呼ぶと聞きました。

「ということはこの小説においては御師という呼称は正確ではないのですね」
「いやまあ、御師という名前は響きも良く、小説に描くには合っているかもしれません」

御師と呼ぶ地域は、どちらかといえば山梨の方や東京の方が多いとか聞きました。この小説はどちらにしろ江戸時代の駿河を舞台とするので、中々すでに小難しい時代であったと察します。とはいえ木花開耶姫を富士山の祭神とする古事記と神道、かぐや姫を祀る富士の山岳信仰、甲斐国の方でいわれた修験道などなど、神仏や教えに問わず習合して書いているのは、きっとすべてにおいて「宗教とはひとつに合わせられるものだ」と著者が考えているからでしょう。

若い人や子供には特に、宗教は怖くて面倒なものだという先入観を抱いてほしくないものです。