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中沢啓治「はだしのゲン」から学ぶ(前編)-私たちは被爆者の立場をどれだけ理解しているか-

 中沢啓治著「はだしのゲン」を通じて被爆者の問題、戦争責任に関する問題の他、作者の思想、教育観について考察したいと思います。前編の今回は、被爆者の立場を私たちがどれだけ理解をしているか、戦争責任をどう考えるかの問題を取り上げます。

なぜ戦争を起こしたのかという事実を知る必要性

 今日8月6日は広島に原爆が投下されてから77年目の日である。戦後世代が大半を占める中、私たちはなぜ戦争を始め、そして悲惨な結果を迎えたのかという原因を追究する動きは近年ほとんど見られなくなった。戦後50年の節目には当時の総理大臣が社会党の村山富市だったこともあってか、戦争中の日本の加害責任に対する言及する動きも見られた。だが、保守右翼は日本の加害責任を追及する動きを日本を侮辱し、日本を貶めるものと激しく反発した。そして、保守右翼の攻撃、反発に萎縮したこと、戦前・戦中世代が減少したことなどで、近頃では日本の加害責任についてほとんど言及されなくなった。

 だが、私たちがなぜ戦争の悲劇を迎えたかを追及すれば、満州事変勃発による中国への侵略にルーツをたどらざるを得ない。そして、中国への侵略が中国はもちろん中国の安定を前提とした中国市場を求める英米を中心とした国々からの反発を受け、日本の孤立化を深めていき、最終的には米英との戦争に突入したと考えるのが自然だろう。そして、敗北が濃厚となった状況においても指導者が戦争を終わらせる決断力に欠いたことや、陸軍を中心に戦争を起こした責任を回避しようと降伏による戦争終結に抵抗したため、降伏決定までに時間を費やした結果、多くの都市での空襲、沖縄の地上戦、広島、長崎の原爆での民間人の犠牲につながったことも事実である。

 以上を考えれば、戦争を起こした事実を追及し、その責任や問題点を探ることがなければ、戦争の犠牲者、被害者への償いとはならないのではないだろうか。実際問題、広島、長崎の原爆被害の問題は被害者の悲劇という問題に限定されてしまい、戦争を起こした者の責任を追及する動きはほとんど見られない。しかし、被爆者として原爆によって肉親を亡くした者として、昭和天皇を含めた当時の指導者の責任を追及し、日本の加害責任を追及した者がいた。それが「はだしのゲン」の作者中沢啓治である。

私たちは被爆者にどう接してきたか

 毎年、8月6日、9日に平和祈念式典が広島と長崎でそれぞれ行われるが、この式典においては二度と原爆が落とされることがあってはならないという祈念を述べるに留まり、なぜ原爆が落とされるに至ったか、そして核を否定することの意味とそのために必要なことが何かへの言及がないかあっても抽象論に留まることが多い。加えて唯一の被爆国という名の下に在韓被爆者、在台被爆者、米軍捕虜の被爆者など日本人ではない被爆者が省みられることはほとんどない。(※1)平和記念式典が抽象的な核兵器の被害や「唯一の被爆国」という被害者意識のみを強調しがちであることについては、「はだしのゲン」の作者中沢啓治も問題と考えていた。中沢は平和祈念式典が戦争を起こした指導者への問題に言及しないことの問題点を指摘した。(※2)その上で中沢は、1971年に昭和天皇、香淳皇后が広島原爆慰霊碑に参拝した際、昭和天皇が憐みの言葉をかけたことについてもそれは自身の戦争責任の免罪符とはならないと批判した。(※3)

 そもそも国はもちろん原爆の被害にあった広島市当局は原爆の残酷さや被爆者について真摯な態度であったのかという問題がある。中沢は自身が中学生のとき、広島市が平和都市建設を理由に中沢家に現在住んでいるところからの立ち退きを迫ったと語っている。市が提示した代替地は水道がまともに整備されていないこともあり、母親が市役所に抗議をするも担当者はそんな言い分は通らないと冷たい態度をとったとし、中沢は平和の名の下に広島市は市民を痛めつけたと批判した。その上で、広島市の復興史において、広島市は被爆者に献身的に救援物資を送るなどして励ましたと書いてあることを不思議であったと述べている。(※4)

 原爆の問題に真摯に向き合わなかったのは国や広島市だけではない。私たち民衆自身の中にも原爆を軽く考えたり、被爆者を差別した(している)という事実もある。中沢は、自身が上京後に被爆者であることを理由に冷たい視線を浴びたこと、同じ被爆者から被爆者が飲んだ茶碗から放射能がうつるということで茶碗に触れまいとした人がいたこと、(※5)中沢の妻が近所の主婦から被爆者とよく結婚する気になったものだと責められたことを語っている。(※6)

 つい最近、核共有という事実上の核保有についての議論が出た(※7)。この議論は結局立ち消えにはなったものの、何らかの形での核保有が政治家の側から出るのは、私たちが「唯一の被爆国」という言葉に見られるように、広島、長崎の原爆被害を自国が受けた被害という極めてナショナリスティックな観点だけで考える傾向があるため、被爆者-当然日本人被爆者には限定されない-一人ひとりが受けてきた(受けている)苦しみ、差別、偏見に目を向けようとしないことの表れではないだろうか。もし、被爆者の証言内容などをただ受け止めるだけに留まらず、その内容の背景や被爆者の痛みは何かということに想像力を働かせた上で、原爆の問題を知ろうとする意識が私たちが強く持っているのであれば、核について断固として否定する態度を取り、日本政府が核兵器禁止条約への調印を否定する(※8)ということもなかったのではないだろうか。

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 いかがだったでしょうか。次回後編では、中沢啓治の教育観、教育体験について考察して参ります。

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(※1) 元長崎市長の本島等が在韓被爆者の問題、昭和天皇、日本の戦争責任の問題に言及しているが、これは現状においては例外的である。詳細は以下のnote記事を参照のこと

(※2) 中沢啓治 「はだしのゲン  わたしの遺書」P204 朝日学生新聞社

(※3) 中沢 「はだしのゲン 自伝」P207~P208 教育史料出版会

なお、平和祈念式典に参加したと述べている箇所があるが、昭和天皇、香淳皇后の広島訪問は1971年4月16日であり、平和祈念式典ではない。

(※4) 中沢啓治 「はだしのゲン 自伝」P156~P157 教育史料出版会

中沢は1939年生まれなので中学生だとすると1952年から1954年の間のことと思われる。

(※5) 中沢 「はだしのゲン  わたしの遺書」P159~P160 朝日学生新聞社

中沢 「はだしのゲン 自伝」P185~P186 教育史料出版会

(※6) 中沢 「はだしのゲン 自伝」P203 教育史料出版会

なお、「はだしのゲン 4」P226~P230 汐文社には、1947年に最初の平和式典が広島市で催された際に、それにかこつけての「平和祭」と称するお祭り騒ぎによって商売をしようという輩がいたと表現している。

(※7)

(※8)



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