見出し画像

信仰に対する雑感②-遠藤周作展を見学して(後編)-

 私のキリスト教信仰への振り返り、遠藤周作に対する想いと遠藤周作展について皆さんと一緒に考察しています。後篇の今回は遠藤周作展で展示された作品「沈黙」、「侍」、「スキャンダル」、「深い河」、「狐狸庵山人」としての活動などについて、学芸員の方の解説と解説に対する私の感想を交えてご紹介して参ります。


遠藤周作展を見学する

沈黙

 遠藤周作の作品として最も知られているのが、禁教令が発布された江戸時代の初期に来日した宣教師が迫害され、キリストの踏み絵を踏んで転向をした場面を描いた「沈黙」でしょう。遠藤周作展では橋本治によるコミカライズ、篠田正浩の「沈黙」、セコセッティの「サイレンスー沈黙ー」についての展示も併せて行われ、それらについてのエピソードを学芸員の方が語ってくれました。

 篠田作品の「沈黙」について、最後のシーンを遠藤は本意ではないとして篠田にカットするように求めたのですが、篠田はカットを拒んだそうです。それに対し、映画化した作品というのは自分の娘を相手の家にやったようことであり、それを受け入れるべきだろうとの感想を遠藤が語っていたとのことでした。

 学芸員の方は、主人公ロドリゴが信者からの拷問を救うためにキリストの踏み絵を踏んで転向をしたという場面について、キリストが踏めばいいという言葉を聞いてそれに従って踏んだということを解説されていました。ただ、これについては、ロドリゴの踏み絵の際に朝が来て鶏が遠くで鳴いたという表記から(※2)、ペトロがイエスを3度知らないと拒んだときに鶏が鳴いたという聖書の表現(※3)と重複する要素もあり、悪魔にそそのかされたことを表現したと捉える人もいます。(※4)ただ、この解釈については、ペドロの裏切りがペドロ自身の本意ではないこと、ヨハネによる福音書でペトロの裏切りをイエスが許すシーンがあり、(※5)多様な読み方もできると個人的には考えます。

 「沈黙」が出版された当時は、司祭の転向を著した作品ということもあり、キリスト教、とりわけカトリックからは異端の書として読むことを禁止するといった動きもあったそうです。遠藤周作と同じ留学仲間で友人でもあり、どちらかというと信仰についてリベラルの傾向を持つ井上洋治神父とも「沈黙」を巡って関係が一時悪化したということを学芸員の方が解説されました。キリスト教関係者の見る目が厳しかったことは存じていましたが、井上神父との関係悪化という話には驚きとともに残念な事でもあったと感じました。

 このようにいろいろな物議をかました作品ということは、逆に「沈黙」がキリスト教という宗教に対して投げかけたものが大きかったとも言えます。「沈黙」を読まれた方は、「沈黙」にどのような感想を抱かれましたでしょうか。

 今回の展示対象となった作品の中では、この作品はまだ読んでいない作品であり、その意味では論評するのはおこがましいのではないかと考えています。この侍という作品は支倉常長をモデルにした作品だそうです。この作品でも、帰国後の処刑のシーンの際に下男が投げかけたセリフである「ここからは・・・・・・あの方がお供なされます」と苦難の中にあってもイエス・キリストがともにあるというメッセージが強調されたものとなっています。

 この下男のセリフについて、学芸員の方は遠藤周作が肺結核を患ったために手術を受けて手術室に入るため、付き添っていた奥様の遠藤順子さんが遠藤と離れる際に励ました言葉だと説明してくれました。そのセリフの中に奥様の遠藤を愛する気持ちと同時に、神の言葉としてのメッセージ性を併せて遠藤が感じたのかもしれません。

スキャンダル

 この作品は私も読んでいたのですが、正直面白くなかったという感じがあり、途中でやめてしまったのが実際のところです。主人公の中に潜むキリスト教がイメージされがちな聖人性を打ち破るべく、SM趣味にはまる主人公に似た男がいるという設定を描いた作品なのですが、人間が持つ欲望性といったこととキリスト教の求める倫理性との葛藤といったことをうまく表現できていなかったというのが正直な印象です。

 学芸員の方も、この作品に対する評価は全般としてあまりいいものではなかったことを解説してくれました。ただ、同時に偉大なる失敗作とも解説しており、遠藤周作が試みた人間の欲望性をどうキリスト教と衝突させるかを表現しようとした実験作の意味合いがあるとも言えるでしょう。

深い河

 「沈黙」と並び有名な遠藤周作の小説というと「深い河」をイメージする人も多いのではないでしょうか。宇多田ヒカルのファンの方だと、宇多田の歌"Deep River"がこの作品から深い影響を受けているということをご存じかもしれません。

 学芸員の方も「深い河」は遠藤周作の小説の集大成とも言える作品であり、登場人物についても遠藤作品で出てくる人物との関連が深い人物であると解説していました。私自身も教会での信徒証言を元にしたnote記事「されどいつわりの日々-信仰に対する私の迷い-」の中でこの「深い河」のシーンを引用しており、キリスト教における神とは何か、キリスト教信仰とは何かを考えさせられた作品という印象があります。

遠藤周作全般について

 今回の展示は遠藤周作の作品に関する展示が中心でしたが、遠藤周作自身の活動、半生についての展示もありました。遠藤周作の原稿の書き方が晩年はワープロになったものの、ワープロを使うまでは原稿用紙の裏に草稿を書いたのちに、秘書に原稿用紙に清書を指示する形を通して他人の文字を見ることで客観視するような原稿のスタイルを貫いたとのことでした。

 フランス留学の際には船の最下層である4等に乗っていたため、白人から差別を受けたことやフランス植民地で差別された現地の人々と一緒にいたことで被植民地の人々の痛みに共感をしたそうです。この辺りに弱者への想いなどを学んだのかもしれません。

 遠藤が日常の状況をユーモラスに描いたエッセー「狐狸庵閑話」の名前に関する父親の再婚相手である義母が30歳前の遠藤に書いた手紙の紹介のほか、素人を集めた劇団である「樹座」の結成、今回の表紙にもあるように狐狸庵という老人に扮する茶目っ気があったこと、などなど、堅苦しい小説家としての顔だけに留まらない柔軟性を持っていたことについても学芸員の方から解説がありました。単なる堅苦しく気難しいというだけには留まらない遠藤の多様性を感じます。

 遠藤周作の純文学は取っ付きにくいという方は柔らかめのエッセーである「狐狸庵閑話」、「おバカさん」、「わたしが・棄てた・女」などから入ってみるのもいいかもしれません。「おバカさん」については主人公のガストンを赤塚不二夫が漫画にしていたこと、「わたしが・棄てた・女」では演劇になっていること、映画化されていることなどについて展示がなされていました。文学作品からも、遠藤自身キリスト教をテーマにした純文学以外お断りといった硬直的な作家ではなく、柔軟性を持ってメッセージを発することができた作家が表れていると言えるでしょう。

さいごに

 今回は、雑感ということもあって当初の予定では1回で終わらせるつもりだったのが、私の遠藤周作に対する想いを書くあまり、3回と長丁場になってしまいました。ここまでの長丁場にお付き合いいただきありがとうございます。拙い文章ではありますが、これを機会として遠藤周作に関心を持っていただけたらと存じます。

次回投稿日変更のお知らせ

 次回は都合により、6月14日(金)15:00から18:00の間とさせていただきます。よろしくお願いします。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

サポートいただいたお金については、noteの記事の質を高めるための文献費などに使わせていただきたくよろしくお願い申し上げます。