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されどいつわりの日々-信仰に対する私の迷い-

 今回の記事は信徒証言(※1)を元にした記事となっております。


[ローマの信徒への手紙] 1章16-17節

引用箇所

 16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
 17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

解釈

 私が今回引用したローマ信徒への手紙1章16節~17節については、カール・バルトや内村鑑三など多くの識者が神学的考察をしているところです。そこでの解釈は、神の救いは、人間が見返りを前提に信仰を持つ、あるいは善行を施すといった現世利益的なものを否定した人知を超えた救いであり、神への信仰を堅持することによってのみ実現されるとあります。故に、キリスト者は信仰生活に励むことが理想であるとされています。

信仰生活に対する振り返り

 しかしながら、私の信仰生活を省みた際にそうした模範的信仰生活にふさわしいものであるのか、と訊ねられるとふさわしいとは言えないと思うのです。浮世の義理という言葉がありますが、世俗ごとに振り回されている結果、信仰からほど遠い生活を日々過ごしているのではないか、そんな気持ちになるのです。

 私はそのことが一番強く表れるのは、人間関係だと思います。人は自分の付き合いたい人とだけ付き合い、自分と価値観の合わない人とはあまり付き合いたがらないものです。しかし、職場とか近所づきあいといったところでは、自分と価値観が合わないから付き合わないというわけにはいきません。

 私は仕事人間というタイプではないですし、お世辞の類が苦手で、自分の意見を曲げて相手に合わせることができず、自分を強く主張する人間です。当然、そういった人間はウケが悪いわけで、疎まれたり衝突したりすることになります。そして、しばしば、ここは仲良しだけで過ごす場所ではないとか、自分を抑えて仕事をすることの大切さを理解しろと言われたこともあります。仕事もできないヤツ、組織に柔軟な対応ができないヤツは一人前じゃない、だから何も文句を言う資格はないという発想が前提としてあるかもしれません。少なくともそうした考え方は日本の社会では「常識」となっているようです。ただ、自分の価値観と対立する価値観と衝突した際に、私はそれに真剣に向き合ってきたのかというとはなはだ疑問であると感じます。

 また、仕事の場に限らず、自分が行ってきたいろいろな活動も本当に自分の信念に忠実な行為をしてきたとは言い切れません。私は、死刑制度は人道に反し、廃止するべきだとの考えを持っていますが、人の命を奪われてきた人たちの辛さ、苦しみを共感し、それを踏まえた上でのものなのかというと迷うところがあります。

 私の祖父母の次女、私からすると叔母にあたる人は、幼くして交通事故に遭って死亡しています。そのとき祖母は自分の愛しい子どもを亡くしたということで動揺し、一緒にいた保護者である自分の母親-私からすると曾祖母にあたる人ですが-が叔母にきちんと注意を払っていたらこんなことにはならなかったと責めたそうです。周りの人のくよくよするなとの声にも、何がわかると激しく怒ったとのことでした。交通事故を起こした加害者は地域の身近な人だったようで、後年、祖父がその人を病院で見たとき、あの病院には二度と行かないと娘である私の母に伝えたそうです。

 このエピソードは、被害者感情には加害者への憎悪よりもまず、身内を失ったことの苦しみが先にあるという認識をどれだけ私は理解しているだろうかと悩みます。またそうした苦しみを自分の苦しみとして受け入れると同時に、それを乗り越えかつ死刑をなくすこと、その重みをどれだけ私は理解しているのか、という気持ちにさせられます。

 以上を省みると、私の現実の生活は、神への信仰、神への正義を信じ、神の真理を実行することの責任、覚悟から程遠いものである事がわかります。であるからこそ、先ほど述べました通り、私の信仰は形だけのものとなっているのではないかという気持ちになるのです。

神は私たち人間をどのように評価しているのか

 神という存在は、移ろいゆくものではなく、どの時代、どの世界にあっても不変であり、超越した存在であることが前提にあって成り立ちます。そのことを頭で理解しながらも、生活のために目をつぶろう、あるいは、世の中の現実に合わせようとする自分がいます。プロテスタントには世俗内禁欲という思想があり、世俗において信仰に基づく生活、仕事をすることの意義を唱えていますが、私の場合は信仰にも世俗にもうまく対応できず、空回りしている状況があると言えます。

 そうした空回りをみて、世間一般の人々は、信仰なんてどうでもいいじゃないか、それより日常の生活が大事だとか、だからキリスト教は面倒な宗教だと感じることと思います。そうした「面倒」な宗教、信仰を重視する宗教に、なぜ私は惹かれたのでしょうか。私は、キリスト教は、そうした迷い、苦悩を理解したうえで私たちに神への信仰に向かう日を待っている宗教なのではないか、と思うのです。

 遠藤周作の小説に「深い河」という小説があります。そこに出てくる大津というキリスト教の信者は美津子という女性によって、キリスト教の道から外れてしまい、美津子によって捨てられてしまいます。しかし、そのような境遇にもかかわらず、大津は神父の道を目指すという信仰に還りました。美津子がなぜ信仰に還ったのかと尋ねると、大津は「あなたから棄てられたからこそ―、ぼくは・・・・・・人間から棄てられたあの人の苦しみが・・・・・・少しはわかったんです」(※2)と応えました。

 美津子は負い目もあってきれいごとを言わないで、と返したのですが、大津は「おいで、という声を。おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない、という声を」と言い、「行きます、と答えました」(※3)と言明しました。一度棄てた信仰にまた向き合い、信仰の道に還ったわけです。

 遠藤周作はキリスト教信仰を強調するタイプの作家ではなく、むしろ錯誤的な義務感としての形骸化した信仰に対する疑念を小説やエッセーなどで表現することが多く、証言の場において自身の小説が引用されることを知ったら、あまりいい気持ちはしないかもしれません。それでも、神の福音、神の義というものは、人が苦しく絶望的な状況にあって、神に対するあきらめ、恨み、無関心の態度を取ろうとも、そうしたものを超越して、人を信仰の道に戻すことで人を救うことにその本質があるのではないかと考えるのです。

 私の信仰の日々は、自分に対して動揺する出来事に遭遇したり、思い通りにならなくなったりした途端にくじけてしまういつわりの日々です。そんないつわりの日々において、何気に自らを省みようとするとき、そのうち何とかなるだろうと楽天的になるとき、世俗ごとや世迷言に振り回されている状況にあって、自らの置かれている状況に気づかされるとき、私はそこに神の福音、神の義があると感じるのです。

証言のタイトルについて

 最後に証言のタイトルについてお話したいと思います。証言のタイトル「されどいつわりの日々」は手塚治虫の「ブラックジャック」の235話より借用したものです。歌手として忙殺される日々を送るアイドルが事故を起こし再起不能となったところに、ブラックジャックがそのアイドルの治療をするのですが、アイドルとして決まりきった役割を強いられ、忙殺される日々に嫌気がさしていた彼女は結局自殺をするという話です。アイドルという言葉は英語では「偶像」ということを意味しますが、世俗ごとや世迷言に振り回される状況を「偶像」と考えた際、何気につけたこの題は、神の見えざる手によって、名づけられた題なのではないかと感じました。

 本日の証言、証言の名に値するかどうかはなはだ危ういものです。お祈りという際に何をお祈りしようかと思いましたが、黙して語らずで、黙とうを持ってお祈りとさせていただきたいと思います。黙とうをお願いします。

(黙とう)

本日はありがとうございました。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

注釈

(※1) 神の言葉を証しするという意味。キリスト教の教会においては通常「説教」という言葉を用いており、それに相当するもの。

(※2) 遠藤周作「深い河」P101

(※3) 遠藤周作「深い河」P101

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