他人に蟹をむかせるな(太宰治『津軽』)

 最近「中野あらばきの人生思考囲い」を聴いている。漫画家の中野さん、あらばきさんの二人によるwebラジオなのだが、これがずーっと聴いていられる。何に対しても「いったんこいつの言い分(人間であれ作品であれ)を聞いたるか」という態度で心地がよい。誠実が過ぎる。

 リスナーからの質問や人生相談に答えているときにも感じるのだが、二人は感情を動かされた物事に対して、なぜそう感じたのかを常に言語化しようとしている、分析しようとしているんですよ。それは多分、「この漫画の凄さを分かるようになりてえ!」の眼で四六時中生活してきたから身についた思考で、これこそ批評だし、漫画を生きるってことだ。

 小説でいうなら町屋良平『しき』の

「「このことを――におきかえてかんがえると、――」という手つづきなしに、対象について考えること。それは生活を対象そのものに同体していくこと。かれのばあいにおいては、生活をダンスそのものと溶けあわせていくことだ」

の境地で、中野あらばきのお二人は穏やかな語り口で創作者の眼に見える世界を語ってくれる。おだやかな心をもちながらはげしい怒りによってめざめた伝説の戦士だ。

 私も二人の誠実と分析にならって、文章と向き合いたい。というわけで読書感想文いきます。

 太宰治『津軽』を読んだ。今まで太宰作品は文春文庫のベスト盤収録作を読んだことがあるだけで、熱心なファンではなかった。他は『走れメロス』を教科書で読んだくらいか。『津軽』も教科書によっては掲載されているらしいが、読んだ覚えはない。扱うならラストの「たけ」に会いに行くエピソードだろうが、『津軽』全体でみるとこの場面は浮いている。というより、それまでの文章とのギャップがあるから、たけとの再会が生きてくる。

 語り手の津島修治くん(≒作者太宰治)は自意識の強い男だ。彼は常に自分が「きざったらしく」振る舞っていないか気にしている。その主人公が生き別れた乳母のたけに会うために、最後の最後にようやく見栄を振り切って、三十年ぶりの再会を果たす。この美しいラストに向かって、彼がいかに気にしいであるかがそれまでの文章で強調されていく、その過程の方がめちゃくちゃで面白い。

 少年時代を振り返る序編の淡々とした文章で、「おっ、今作は自然主義風の旅行記(田山花袋の名前も出てくる)なのか?」とフリを見せて、本編の冒頭で早速落としてくる。

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、おれは旅に出るよ」
 私もいい加減にとしをとったせいか、自分の気持の説明などは、気障な事のように思われて、(しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言いたくないのである。

「気障な事のように思われて何も言いたくないのである」と自分で言ってしまうところがやかましい。「こう思われたくない」という本心をあえて書くことで、読者の「そういうところやぞ!」のつっこみを待っている。
『津軽』の語りはつっこみ待ちの語りです、ということが本編冒頭から明示されているのがうまい。こうすると「かわいいやつ」と読者から思われると自覚してやっているあざとさが魅力なのだが、それが鼻につく人もいるだろう。

 私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しゃこ、何の養分にもならないような食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かった筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到って、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちゃった。

 この場面もアイドルじみた無邪気さの演出だ。何が「暴露しちゃった。」だ。生来の貪婪性なんて言葉きざじゃなきゃ使わないだろ。結局こいつは「複雑な微笑」一つで周りの人間が勝手に酒の世話をしてくれるとわかって振る舞っているから始末が悪い。でもそういうところが好きだよ、津島くん。ただし、他人の奥さんに蟹をむかせるのはやめろ。

 N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでいるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がっているのに違いないとお思いになった様子で、ご自分でせっせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかという、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。

 つっこみ待ちの芸風なのに他人の奥さんに蟹をむかせるやつは最悪。たけもその姿を見たら泣くぞ。


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