見出し画像

苦手意識は覆らない

私は文章を書くのが苦手だ。
本まで出しておいてなにを言っているんだろう。
でも、苦手なものは仕方ない。

私がエブリスタに登録し、創作界隈に片足を突っ込んだのは、2018年のこと。
それまでまともに文章を書いたことがなく、それどころか「読書が好きです」と言えるほど本を読んでこなかった。
小学中学高校と図書室とは無縁だった。市の図書館に行って本を借りた記憶もない。母親は本が好きなようだけど、それを娘に強要する人じゃなかった。
本を読め、と言われたことがなく、読むのはもっぱら漫画だった。
辛うじて好きだった(と記憶している)本はエルマーの冒険とぼくは王さまシリーズ。大人になってたまに本を読んだとしても、ほぼミステリ。

この界隈には、「ダザイの本全部読みました」とか「今月はこれだけ(数十冊)しか読めませんでした」みたいな人がゴロゴロいる。
そういう人たちが「で、あなたはどうなんですか?」といった瞳で見ているような気がする。
あなたは本を出したんですよね、なら、それなりに本を読んでいるんですよね。
私は心の中でこう言う。本を読んでないんです、すみません。
読んでないということは、それだけ「文章」に慣れていないということで。そういう「負い目」のようなものがあるから「文章を書くのが苦手だ」と思ってしまう部分があるのかもしれない。

それに加えて、もう一つ。
私は、特技もなく独創性もなく意欲もなく、そんな人間だったので、夏休みの自由研究のテーマを探すのに毎回苦労していた。
はじめこそどこかの団体が主催している「〇〇体験教室」に出向いて、染め物や工作をしては作品を提出していたのだが、それも面倒になったのか、高学年になる頃には「読書感想文」が定番になった。
本と原稿用紙さえあれば他になにもいらないから、準備が楽なのだ。
けれど読書感想文を書くのは、私にとって容易なことではなかった。
書いたものを母に見せるのだけれど、毎回直される。
ここがだめ、こういう書き方じゃない、もっとこうして……。真っ赤っかだ。
まぁたしかに、読書感想文の書き方というものはある。それを教えてもらっているといえば、そうなのだけれど。
けどこうして「母に直された」記憶というのはいつまでも残るわけで。「直された」ということは「よくなかった」というわけで。
こういう部分からも、私の文章を書くのが苦手だという意識が根付いている気がする。
そしてその根っこは案外深い。

文章を書くのが苦手だから、文章を書く時には何度も何度も読み返す。
読んだ時に聞きごごちがいいかどうか、間違った言葉の使い方はしていないか。(これは本当に多くて、自分でも参っている。こんな時なんて言うんだっけ~? といちいち辞書を引く作家がいるんだろうか。いや、いない。だから私は作家になれないのだ。noteは基本的に出てきた言葉をそのまま書いているので、多分間違いが多いと思う)
言葉が自由自在に飛び出てくる人間になれれば、こんなに素敵なことってないのにな、と思う。

と、こんなことをある人に話したら、「でもnoteでエッセイ書くんでしょ? (文章書くのが)やっぱり好きなんだね」と言われた。
どうも腑に落ちない。いいや、ちがう。私は文章を書くことが好きではないし、むしろ嫌いだ。
執筆作業は全然捗らないし、「書くの楽しいヒャッハー!」なテンションになったことがない。
執筆時はだいたい虚ろな目をしている。一日ノルマ〇字なのに、〇字しか書けなかった! と日々嘆いている。

なのに、たしかにいま、私は文章を書いている。
好きではない……はずだけど。
それでもやっぱりこうして書いているからには、離れられない存在なのかもしれない。
いつか文章と友達になれたらいいなと思う。






この記事が参加している募集

#読書感想文

190,514件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?